「冬の時代」の到来と炉型選択
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「東京電力初の原子炉に沸騰水型が採用された経緯」の記事における「「冬の時代」の到来と炉型選択」の解説
炉型に関係する面でも1960年代前半になると優劣が分かれ始めた。 『とうでん』1993年11月号によれば1960年6月、イギリスが原子力開発計画を2年遅らせることを表明し、コールダーホールに対する逆風となった。更に他国も開発費の増大などを理由に、従来のペースを落すところが出てきたという。加えて、この頃から火力の主役に石油が躍り出し、コスト面で火力の発電原価が下がってきていた。佐々木史郎は「原子力は、どう計算してもそれ以上になってしまう。これは困った事になったな、と正直いって思いました」と回顧している。そのため、原子力発電課でも1960年から約4年ほどは「冬の時代」であった。また、池亀亮(当時原子力発電課課員、後東京電力副社長)は「福島地点の話は動き始めてはいましたが、仮に土地を取得しても、実際にいつ建設に着手できるか、まったく見通しがつかない時代でしたね」と回顧している。 また、パイロット機関である筈の日本原子力発電はコールダーホール型のコスト見積もりに失敗し、当時の火力発電より高いキロワット当たり7円に高騰していた。上述のように石油火力全盛期が到来しており、田原もこれらの要素を挙げて「こうしてみる限り東電が急いで原子力発電所をつくる必然性はどこにもなさそうである」とコールダーホール型を評している。 なお池亀亮は、1959年1月、上述の通り他の原子力発電課社員数名と共に日本原電に2年4ヶ月出向し、その間オークリッジ国立研究所のRactor Hazard Evarution Schoolに留学したが、そこで学んだのは軽水炉の研究であった。また、田原総一朗は触れていないが、日本原電も1961年2月の取締役会にて「第二発電所は低濃縮ウランを使用する軽水冷却炉を使用する」と決定していた。ただし、田原は日本原電がBWRの導入を決定したのは1963年5月であり、木川田が東京電力の常務会で言及するより後であった旨を書いている。 上述のように、軽水炉に対しても厳しい時期であったが、池亀や佐々木は将来的な逆転を確信しており、課員全体の士気を高めるために、原子炉理論の復習、最適化設計、安全評価の詰めをこの時期に重ねた。BWRとPWRについても入札に備えて研究の深化に余念が無かった。そのため、1964年12月に本店に原子力発電準備委員会、現地に福島調査所が設置された際には「実際に建設を進めるための研究はほとんど終わっていたし、必要な資料もほとんど揃っていた」という。 なお、国土が狭隘なことは東京電力としても意識はしており、その対策としてこの頃、工学的安全施設について入念な検討を実施したとしている。その一例として田中直治郎は1960年に米国に調査団を送りアメリカ原子力委員会に安全研究の梃入れを申し入れた事、日本における安全研究の草分けのひとつ、SAFEプロジェクトの呼びかけを行った件を挙げている。 冬の時代の終わりは、組織改正に表れた。東京電力は原子力発電課を当初社長室に所属させていたが、原子力発電準備委員会の発足より少し前、技術部の所属に移行し、1964年に原子力発電準備委員会も発足した。委員会の委員長は当時常務の地位にあった田中直治郎が就き、事務局は原子力発電課が担当、、技術分野を検討する「技術・プラント分科会」、実際のレイアウトや建設方針を検討する「土木建築分科会」の2つの分科会で構成、各分科会はそれぞれ10名ずつのメンバーより成っていた。更に「社内の世論を巻き込むため」メンバーは中堅の課長クラスから集められたという。北米の留学を終えた佐々木史郎は、技術・プラント分科会に配属された。
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