「サンカ」という語彙の歴史
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「サンカ」の記事における「「サンカ」という語彙の歴史」の解説
「サンカ」という言葉が現れたのが、江戸時代末期(幕末)の文書が最初である。北海道の名付け親でもある探検家の松浦武四郎の著書にサンカに命を救われたとの記述がある。彼ら自身がサンカと名乗ったわけではないため「サンカ」はこれ以前に口語として存在したと推察される。この手記では単に「山に住む人」という意味で使われている。広島の庄屋文書(1855年)にも「サンカ」の語は登場し「山に住む犯罪者」の意で記述されている。 明治に入ると警察を中心とした多くの行政文書に「山窩」と記述され、ほとんど山賊と同義の言葉として使用される。民俗学者の柳田國男が警察の依頼を受けて「山窩」の現地調査を行ったのもこの時代である。行政文書に「山窩」が登場する頻度は次第に減り、第二次世界大戦中にはほぼ皆無となっている。 「サンカ」の語が一般に広く知られるようになったのは、戦後にサンカ小説によって流行作家の地位を確立した三角寛が発表した一連の作品群によるところが大きい。これらは実際に山中に住み「サンカ」と呼ばれた実在の「松浦一家」への取材に基づいている。しかし三角は商業小説家であり「サンカ小説」の内容は娯楽性を追求した完全に創作の人間ドラマである。三角の小説が流行したことで、その設定を元に『風の王国』を執筆した五木寛之など、更にファンタジー性が増した大衆小説が大流行した。三角の協力を仰いだ映画『瀬降り物語』(中島貞夫監督)も制作されている。サンカ文学の流行後にはサンカは被差別民であり、サンカへの偏見を是正しようという誤解に基づいた運動が見られるようになるが、そのころには山間や里部の不定住者はほぼ消滅していた。 1980年代のオカルトブームでは謎多きサンカは格好の題材となり、神代文字を使用する、超能力を使う、古代文明の生き残りであるなど荒唐無稽な本が多数出版され、様々な誤解や俗説を産むようになった。更に一部の懐疑主義者からは「サンカはオカルト好きの創作ではないか」と実在まで疑われる事態となった。 その後のサンカ研究では、単純な貧困層(山間や里部でさまざまな隙間産業的な生業に就いていた者)と、犯罪者あるいは犯罪者予備軍の隠れ家としての生活形態を持っていた者を切り離して考えようという見方が一般的になりつつある。しかし全国的にサンカの名称が使われ出したのは、もっぱら官憲の用語としてであったことを考え合わせると、これもまた間違いであり、学問的中立性を欠いているという批判もある。強い監視が必要であると過去に目されていた一定の集団は、単純な貧困層より早い段階(おそらく昭和初期)に社会構造の変化や官憲の圧力により山間部や里部からは姿を消したのであろうという考察もある。社会学的な側面で「サンカ」という言葉やそれを取り巻く状況を検証する動きが成果を上げており、議論に一定の方向性が生まれつつある。 江戸時代末期から大正期の用法から見て、本来は官憲用語としての色合いが強い。その初期から犯罪者予備軍、監視および指導の対象者を指す言葉として用いられたことが、三角寛の小説における山窩像の背景となっている。また、サンカを学問の対象として捉えた最初の存在と言ってもよい柳田國男やその同時代の研究者らも、その知識の多くを官憲の情報に頼っている。官憲の刑事政策によって幕末から発生した、流民の虞犯者に対して「川魚漁をし、竹細工もする、漂泊民」の呼称であるサンカが(「山窩」という当て字で)使われた。それがマス・メディアに載って流通し、一人歩きした果てに、日本の中で異なる習俗をもった異なる種族の如き意味を孕むに至ったという。官憲からの情報で「山窩らしき」者を調査した柳田は、鷹野弥三郎のサンカ=犯罪者論を鋭く批判し、彼等の窃盗は「財貨に対する観念の相違に基づく」ものであるとして一応擁護の立場に立っている。
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