「サロメ」ダンサー
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「モード・アラン」の記事における「「サロメ」ダンサー」の解説
彼女が「サロメ」という主題を発見したのは、1906年のことであった。19世紀末からの「サロメ」ブームはヨーロッパ全土に広がり、芸術の重要なテーマとして盛んに取り上げられていた。文学ではオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』(1891年初出)、絵画ではギュスターヴ・モロー、オーブリー・ビアズリー、グスタフ・クリムトなど、音楽ではリヒャルト・シュトラウスのオペラ『サロメ』(1905年)などが知られる。 モードもこのブームとは無縁ではなかった。彼女とレミが直接「サロメ」に触れたのは、1904年にライプツィヒで初演されたワイルドの戯曲(マックス・ラインハルト演出)といわれる。2人はこの戯曲をベルリンで鑑賞している。サロメとその物語はダンスのテーマに向いていて、他にもロイ・フラーを始めとする何人かのダンサーたちが舞台化に取り組んでいた。 レミはサロメの物語に新たな解釈を与えた。それはサロメにモードの実人生を投影し、彼女自身の悲劇を踊りで表現するというもので、洗礼者ヨハネの生首は処刑されたセオドアの象徴でもあった。『サロメの幻影』(Vision of Salomé)は、レミの台本と作曲によって1906年にウィーンで初演された。しかし、作品の創造に大きな役割を果たしたレミは初演のわずか10日前に死去している(自殺といわれる)。 『サロメの幻影』が大評判になったのは、ウィーンの次にブダペストで行われた公演であった。モードはサロメの衣装を自作したが、それは20世紀初頭としては露出度の高い大胆なもので、胸当てこそつけているものの手足、肩、腹部などをむき出しにしていたために「わいせつ」だとされた。すでにウィーンでの初演時から、彼女の衣装は問題視されてレオタードを着用するように申し渡されていた。モードは表現と芸術的な効果を理由として抵抗を試みたものの、多少の妥協を余儀なくされた。それでも大胆な衣装についての報道が、彼女の踊りへの興味と宣伝効果を引き出していた。 モードはミュンヘン・パリなどで公演を続けた。パリの公演では偶然にもリヒャルト・シュトラウス自身の指揮によるオペラ『サロメ』のパリ初演と同時期となり、そのことも話題になった。 チェコのマリエンバードで、モードはさらなる成功への機会を得た。1907年9月、彼女はその地を訪問していたイギリス国王エドワード7世の前で踊りを披露した。エドワード7世は彼女の踊る7つのヴェールの踊りを気に入って、ロンドンで公演するようにと強く勧めた。 1908年、モードはロンドンに進出してパレス・シアターで公演を行った。彼女の宣伝はアルフレッド・バットという有能なインプレサリオが担当し、センセーショナルな惹句をもって売り出した。当時の宣伝パンフレットでは、モードの踊りがかもし出すエロティシズムが明白に表現されていた。 彼女の脚はすらりとして、感覚的なリズムを刻んでいる。(中略)彼女の唇から燃え上り、彼女の赤い口の熱い炎へと燃え移る欲望は、空気を情熱の狂気によって冒している。(中略) ミス・アランは、彼女のすばらしい肉体の罪の許しを得ようとする欲望の甘美な権化なのである。 — 『モダンダンスの歴史』pp.140-144。 当時のロンドンは、ヴィクトリア女王の禁欲的な治世から解放された「エドワーディアン」といわれる時代であった。ヴィクトリア女王の長い治世と第一次世界大戦の間隙にあたるこの時代は、開放的かつ快楽的として知られる。モードの踊る『サロメの幻影』はこの時流に乗って空前のヒットとなり、イザドラ・ダンカンもかなわないほどであったという。 同年、モードは新聞のインタビューに答えて自分の踊るサロメは「やっと14,5歳」だと述べている。「死者の首をみだらに抱く幼い女性」というモードの踊りはスキャンダルを引き起こし、教会からの非難を受けた上にマンチェスターでは公演が禁止となった。それでもモードの公演は1年以上のロングランとなり、彼女にとって最高の成功となった。この年には『マイ・ライフ・アンド・ダンシング』という著書を出版し、イギリス国内で1年足らずの間に250回の公演を行っている。
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