ニュースステーション ニュースステーションの概要

ニュースステーション

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 08:15 UTC 版)

ニュースステーション
NEWS STATION
番組のスタジオがあったテレビ朝日本社ビル
ジャンル 帯番組 / 報道番組
企画 オフィス・トゥー・ワン
(企画・制作協力)
出演者 久米宏
小宮悦子
渡辺真理
小林一喜 ほか
出演者を参照)
オープニング こちらを参照
エンディング 同上
製作
制作 テレビ朝日
放送
音声形式ステレオ放送[注 1]
放送国・地域 日本
放送期間1985年10月7日 - 2004年3月26日
放送時間放送時間を参照
回数全4795
公式サイト(アーカイブ)

特記事項:
金曜日は、放送開始から1988年3月まで「金曜版」として23時台に放送。
テンプレートを表示

概要

テレビ朝日が平日23時台に放送していた『ANNニュースファイナル』・『ANNスポーツニュース』に替わり、ドラマバラエティ番組を放送していた平日22時台に新設したニュース番組である。テレビ朝日の本社移転(アークヒルズ)と同時に開始された。構想段階から広告代理店である電通が深く関与した。久米宏も構想の段階で起用が決まり[注 2]会議に参加しており、番組の準備などのため、久米は1985年4月までに『おしゃれ』(日本テレビ系列)以外のレギュラー番組を降板した[3][注 3]

当時としてはこの時間帯のニュース番組は、独立U局である近畿放送(後に「KBS京都」との局愛称を使用。現・京都放送)がローカル番組として放送していたタイムリー10とその一時期にタイトルと放送時間を改変したザ・タイムリーがあった(1987年春頃に放送時間を再度繰り下げた際に番組タイトルを元に戻した)程度であり、全国ネットの番組では初の試みであったことから、番組の先行きに対して不安を持つ者も多かった。開始第一週目の週平均の視聴率は8.68%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム、以下断りのない限り略)と低視聴率に悩んだ[4]1986年2月エドゥサ革命以降は、安定して20%前後の高い視聴率を誇り、テレビ朝日の看板番組となった[注 4]。視聴率20%超えは、245回(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)[1]。関東地方より先に関西地方(朝日放送)で視聴率(ビデオリサーチ調べ、関西地区・世帯・リアルタイム)を獲得した。

中学生でもわかるニュース」をコンセプトとして、政治経済などのニュースにおける難解な用語や展開などを、フリップ地図模型、実物、政治家人形、積木などを使い、わかりやすく伝える工夫を凝らした[注 5]。これで徐々に視聴率を獲得した。初期には手書き・手作りといったアナログ感を重視していたが、コンピュータグラフィックスについても最新技術を積極的に導入している。安竹宮で争われた1987年自民党総裁選挙では全派閥を積木で表現し、積木を積み立てて今後を予測した。1990年代初めには民間気象情報会社ウェザーニューズの協力で天気予報に3DCGを使い[5]イラク戦争では地図に「CADシステム」を用い、後のGoogle Earthのように直感的な操作で地図の拡大・縮小を行った。2002年あたりからはクロマキー処理を行わないリアルタイムCGも多用された。この他、BGM・ナレーション・テロップなどをワイドショーのように使う表現・演出手法は、しばしばニュースを過度にセンセーショナルなものに見せた。また久米が「個人的意見」を言うことで従来の番組や新聞との差別化を図った。

従来、外部発注が常識となっていた民放テレビ局にあっても報道番組は聖域とされ、ごく一部の例外[注 6] を除いて番組制作が外部に委託されることがなかった中で、オフィス・トゥー・ワンという外部の制作プロダクション(久米の所属事務所でもある)を導入してニュース番組を制作した。

本番組開始以降、現在の『報道ステーション』に至るまでネットスポンサー各社は、スポーツコーナーを除いて30秒枠の企業も60秒扱いでクレジットされている。また、読み上げも既に『クイズタイムショック』で導入されていた全社読み上げ形式で(言い回しは「(ここまでは、)スポンサー会社名がお送りします(しました)[注 7]」である)、これも『報ステ』に引き継がれている。

音声は当初モノラル放送であったが、1993年4月19日[6]からステレオ放送になった。また、番組最末期はスタジオ映像のみハイビジョン制作(16:9サイズ)だった。しかし、実際に本番組をハイビジョンで放送していたのは当時地上デジタル放送が開始されたばかりだったテレビ朝日と朝日放送(ABCテレビ)・名古屋テレビ(メーテレ)だけだった。

番組の歴史

番組の企画から開始まで

当番組の原型となる企画を練る会議は、1984年夏ごろから『久米宏のTVスクランブル』(日本テレビ)の企画会議と並行して、久米とオフィス・トゥー・ワンのスタッフで水面下で進められていたという。久米は『TVスクランブル』を「未来のニュース番組につながるステップボードのような役割を果たしている」としており、そこで考えたのが当番組のコンセプトである「中学生でもわかるニュース」だった[7]。彼らが常に意識していたのが当時、報道番組の王座に君臨していた『ニュースセンター9時』(NHK総合テレビ)だったが、久米は「裏で勝負するのは無謀極まりない」として、せいぜい午後11時からの30分枠を思い描いていた。しかし、話を進めるうちに平日帯のプライムタイム枠での1時間枠という構想に膨らんでいった。しかし1時間では採算が取れないため結果的には1時間15分となった[8]。その後、この大胆にして無謀な構想に乗った電通の参入や、電通の支持を取り付けてオフィス・トゥー・ワンのスタッフが久米の古巣であるTBSを含む在京各局にこのニュース番組の企画書を持ち込んだところ特に敏感に反応したこと、そして当時の報道局次長である小田久栄門の「報道はテレビの本道です」という訴えに応じた朝日新聞の社会部出身で当時の社長・田代喜久雄の英断、さらに六本木六丁目の再開発に際してアークヒルズへの本社機能移転・最新鋭の放送設備を備えた放送センターの新設を行うにあたりその開設記念の大型の目玉企画を模索していた、という三点からテレビ朝日も参入が決まった。電通は企画開発段階から特別チームを編成して視聴者動向のマーケティングや視聴率のシミュレーションを実施。『ニュースセンター9時』のニュース項目を1週間に渡り分析するなどして基本構想をまとめていった。テレビ朝日の社内では「テレビ局でも最も神聖にして侵してはならない報道の分野に外部の制作会社が参入」「プライムタイム帯へ視聴率が望めない大型ニュース番組の投入」「報道の現場を全く知らない他局アナウンサー出身のタレントのキャスター起用」というそれまで厳然とあったタブーを侵す新たなニュース番組の立ち上げに非難・反発が上がったが小田がリーダーとなって同じく特別チームを編成。制作スタッフには局内から有能な人材が集められたが、その人事異動はトップダウン方式で召し上げられるものであり、社内で「赤紙」と揶揄されたという。こうして、電通の営業戦略会議、テレビ朝日の新放送センター開設に伴う番組会議、オフィス・トゥー・ワンの企画会議と3か所で別々の会議が、番組始動に向けて同時並行的に進む事となった[9]

1985年7月29日には番組の開始と久米のキャスター起用が正式に発表され、ティザー広告も放送を開始。久米はテレビ朝日とこの時点で2年の契約を結んだ。当時マスコミは契約金を2億円とも4億円とも報じたが、久米の希望で純粋な出演料のみになった。8月にはシミュレーションを行ったが、ニュースとバラエティが無秩序に混ざってしまい番組の体をなさなくなってしまったという。それまでのニュース番組は報道記者が書いた原稿をキャスターが読むだけであり、当然1時間以上の番組を制作経験が無い報道局だけでは作れないため、テレビ朝日の制作局とオフィス・トゥー・ワンのスタッフによる合体チームと報道局のスタッフが協力して番組を制作する形となった。テレビ朝日とオフィス・トゥー・ワンが別々に行っていた会議と並行して、3チームが顔を合わせての全体会議・準備が始まり、久米もシミュレーション以降の全会議に参加した[10]

全体会議では、会議室でそれまで制作会社の人間と口も聞いた事の無いエリート集団であるスーツ姿の報道スタッフと特にオフィス・トゥー・ワンのディレクター・作家は報道の事は全く知らない雑草集団である短パンにTシャツ、ゴム草履姿の制作スタッフが対峙すると、「事実を正確に伝えるという正統派のニュース番組」のあり方にこだわっては派手な演出や目新しい工夫を嫌う報道側と「ニュースをいかに分かりやすく面白く見せるかに重点を置き、セットやスタジオ演出に気を配る」という考えのオフィス・トゥー・ワン側が衝突し、言い合いばかりで話が全く噛み合わない状況が続いた[11]。この衝突は番組開始後も続き、報道側は「ニュースの事を何も知らずに勝手な事を言うな」、オフィス・トゥー・ワン側は「なぜ原稿をもっと分かりやすく書けないのか」と大喧嘩になった。反省会は深夜2時まで及び連日連夜、時に殴り合いの喧嘩に発展する程の激しい討論を続けたという[12]

そのような準備期間を経て、1985年10月7日に民放初の平日プライムタイム帯での1時間超に及ぶワイド編成の報道番組として放送を開始。

初期(1985年10月 - 1988年4月)

今までにない全く新しい形の報道番組を目指す」というコンセプトのもと、メインキャスターの久米宏、サブキャスターの小宮悦子(当時テレビ朝日アナウンサー、1991年からフリーアナウンサー)、コメンテーターの小林一喜(当時朝日新聞論説委員)を中心に、キャスター陣には小宮以外のテレビ朝日アナウンサー(スポーツキャスターの朝岡聡、リポーターの渡辺宜嗣)に加えて、一般公募による出演者オーディション[注 8]から数名のキャスター・リポーターを起用した。一般公募組の中には、橋谷能理子(元テレビ静岡アナウンサー、スタジオアシスタント)、若林正人(元東京銀行調査役、コメンテーター兼リポーター)、杉本典子(元三菱商事勤務、スポーツ担当)、坪井貴久美(元つくば科学万博コンパニオン、ニュース担当)、内田誠早稲田大学大学院院生、リポーター、後にジャーナリストへ転身)、松本侑子筑波大学学生、天気キャスター、後に作家へ転身)などがいた。

第1回の放送で最初に取り上げたのは、石狩鍋に入れるの話題。長谷川宏和(当時北海道テレビアナウンサー)の自宅、九州朝日放送鹿児島放送のスタジオ、新潟テレビ21のサービスエリアにある新潟県村上市を結んでの生中継を実施した。本来は「鮭を切り口に環境問題について考える」という趣旨だったが、本番中に最新鋭のVTR再生機が故障し、結果的に上記の内容になったという。これが初日の惨敗を象徴する出来事になったとして、以後しばらくの間、スタッフ間で「鮭」は禁句となり、久米も1年間鮭を口にしなかったという[14]。その直後には、同市出身の稲葉修(当時自民党衆議院議員)が、自宅からの生中継で久米とトークを繰り広げている。

初期は月曜日から木曜日は22:00 - 23:17(「大相撲ダイジェスト」放送時は23:15まで)、金曜日のみ22時台は『必殺シリーズ[注 9]など当時の朝日放送(現在の朝日放送テレビ)制作枠であり、スタート当初はこの枠について朝日放送との調整が付かなかったこともあって[2]、1時間遅れの「金曜版」とし、23:00 - 翌0:00の放送となった(「大相撲ダイジェスト」放送時はネットスポンサー枠の23:45まで)。

開始当初は観客を入れての公開形式番組として放送されており、原則としてメインスタジオであるAスタジオからは一般ニュースを放送しない(一般ニュースは『ANNニュースファイナル』時代の名残から1コーナー扱いとされ、報道局のNスタジオから小宮・坪井(貴)が伝える形となっていた)構成が採られるなど、報道にバラエティ色を加味した内容となっていた。しかし、開始早々から阪神タイガースの21年ぶりのリーグ優勝・日本一、エドゥサ革命など、重大ニュースにより全編Nスタジオからの臨時編成となるケースが多く、その際に一般公募によるキャスター陣が対応に窮する場面が多々見られたこと、また開始早々の視聴率低迷の影響もあり、開始数回でAスタジオでの観客入れを廃止したのを皮切りに番組内容・キャスター配置の再整理が急ピッチで進められ、1986年4月からは全編を通じて久米・小宮・小林の3人体制[注 10][15]で進行・ニュース読み・解説を担当する報道色の強い番組構成にリニューアルされた(この際、リポーターと並行して不定期で天気コーナーを兼務するようになった橋谷、同じく不定期でゲストコメンテーターを兼務することになった若林と天気キャスターの松本、リポーターの内田誠を除く公募によるキャスター陣は一旦リポーター専任となった後、開始1年以内で全員番組を降板している)。

放送するスタジオに関しても、1986年の久米・小宮・小林のトリオ体制になる前後から1990年代初頭まではオープニングから概ねスポーツコーナー開始前のCM枠までの前半部がNスタジオからの放送となり、Aスタジオはスポーツコーナー以後の後半部で使うように変更された(日によっては全編Aスタジオから放送の場合もあった)。ただし、重大ニュースがあった場合や後述するセット改装があった場合は全編Nスタジオから放送していた。

ただし、「金曜版」については上記の番組リニューアル後も引き続きバラエティ色の強い構成を継続(しばらくNスタジオ・Aスタジオ併用の構成も継続し、小宮はNスタパートのみ出演していたが、末期はAスタジオからニュースを読むこともあった)し、Aスタジオでの観客入れも継続していた。この「金曜版」は、当時週休二日制が定着していたことから、『TVスクランブル』など本番組開始までの久米のレギュラー番組を引き継いだような内容がメインとなっており、土曜に代わる「休日前夜」という位置づけでNスタジオからの通常のニュースに加えて、毎回ゲスト2名(男女1名ずつ)をブーメランテーブルに隣接するソファのセットに招いて、「金曜チェック」「奥様教養シリーズ」「ニュースミステリー」「カウントダウンJAPAN」「ニュース・ことわざ勉強室」「ニュース分水嶺」「ニュースのふるさと」「世直しエイド」といったコーナーを放送した。

1986年7月から選挙特別番組として『選挙ステーション』がスタートする。

1988年4月改編で朝日放送が金曜22時台撤退により月曜日から金曜日まで放送時刻が統一されることとなり、3月25日4月1日の2週にわたって「金曜版」終了スペシャルを放送する予定だったが、3月25日は臨時ニュース[注 11]のため放送できず、4月1日のみの放送となった。「金曜チェック」はこの影響で2本立てで放送された。なお、「金曜版」最終回の4月1日より22:00 - 23:17の放送となり(当初の予定通り)、放送開始時刻が統一されただけでなく放送時間も同じになった。

中期1(久米・小宮時代、1988年4月 - 1998年3月)

新体制となる1988年4月4日から全曜日統一して報道色の強い構成となったが、金曜は金曜版からの名残もあり、「金曜コンサート」などの企画を設けたり、1990年代に入ってからはテリー伊藤笑福亭松之助など金曜のみ出演するレギュラーを起用するなど、月曜から木曜までとは違う雰囲気作りが図られるようになる(これは現在の『報道STATION』でも変わっていない)。金曜版を引き継ぐ形でミュージシャンやお笑い芸人がゲストとして登場することもしばしばあった。

1990年には久米が第27回ギャラクシー賞・テレビ部門個人賞を受賞[16]。1993年には番組としてギャラクシー賞30周年記念賞を受賞[17]

1993年7月1日(木曜日)、久米が同年の下半期突入を期に眼鏡[注 12]を着用するようになった。この頃のメガネはまだ報道キャスターらしいシンプルな枠が無いレンズのみのものであり、このメガネは1999年10月の一時降板までは一貫して変更せずに着用し続けた。

1995年4月からは新たにスタジオサブキャスターを金曜日のみに新設。この金曜日のみ久米・小宮・コメンテーターを加えた4人体制となる。

1996年10月3日からスポーツキャスターが坪井直樹から角澤照治に変わり、角澤は番組終了まで7年半にわたってスポーツを担当することとなった。翌週10月7日からテーマ曲と作曲者を約7年半ぶりに新しいものに変更した。

1997年4月から金曜のみに女性スポーツキャスターを設けた。初代はテレビ朝日スポーツ局記者の長島三奈が務めた。

1998年3月27日、小宮が石田純一の後任として『スーパーJチャンネル』のメインキャスター就任のため降板[注 13]。但し、金曜日のみの出演に移行した(『Jチャンネル』も半年間は金曜日のみ出演せず)。小宮降板後の2代目サブキャスター就任までの間、同年5月8日までサブキャスター代理として月曜日から木曜日は堀越むつ子(3月30日 - 4月16日[注 14])・渡辺みなみ(4月20日 - 4月30日)・渡辺宜嗣(5月4日 - 7日)の3人で繋いだ。

中期2(久米・真理時代、1998年4月 - 1999年12月)

1998年5月11日、改編期から約1か月遅れでリニューアル。久米に加え、後任のサブキャスターにTBS退社直後の渡辺真理、スタジオサブキャスターにテレビ朝日スポーツ局記者の白木清か、1997年11月から出演しているコメンテーターの菅沼栄一郎の4人体制となる。これまでは金曜のみスタジオサブキャスターを設けていたが、このリニューアルによってスタジオサブキャスターは月曜から木曜にも追加新設され、全曜日で設けられるようになった。なお、金曜日のみは引き続き小宮と丸川珠代が担当する。テーマ曲がゴスペラーズの曲に刷新されて、番組のタイトルロゴも若干アレンジしてリニューアル。オープニング映像もニュース映像に変わり(但しリニューアルした初回は久米、真理、白木がスタジオに向かう様子の映像を流した[注 15]ほか、ゴスペラーズがゲスト出演した際はスタジオでオープニングを生披露しているのを背景にするなどの例外あり)、最初から日付表示がなされるようになった(タイトルは映像の最後に表示)。但し大きなニュースが入った時はピアノ曲になりスタジオ背景で日付出てから直ぐにタイトル表示となる。

田代まさしの降板で金曜日も『Jチャンネル』に出演するため、番組開始から12年半出演後も1998年4月10日以降の金曜に限って出演を続けてきた小宮が1998年9月25日を以って完全降板、翌週の10月2日には丸川も降板した。翌週10月5日より、真理と白木は全曜日出演となる。1999年2月から月曜日と火曜日のみ上山千穂が担当し、白木は水曜日から金曜日の担当に縮小となった。

1999年8月、セットをリニューアル。ところがその約2か月後の10月6日放送を以て、契約切れを理由に久米が番組を一時降板するという異例の事態となった。これを受けて翌10月7日放送から約3か月間、年末まで宜嗣が代役を務めた。

後期(2000年1月 - 2003年7月)

2000年1月4日、前年12月23日に寿退社のため降板した白木清かと入れ替わる形で、久米が3か月ぶりの番組復帰を果たす。それに伴い番組もリニューアルした。スタジオサブキャスターも上山千穂が全曜日担当することになり、久米・真理・上山とコメンテーターの4人体制となる。また、コメンテーターも清水建宇萩谷順森永卓郎船曳建夫の4人(2002年頃に船曳が降板し、以後は3人体制)に一新された(日替わりでいずれか1人が出演)。テーマ曲が福岡ユタカ作曲のものに刷新され、スタジオセットやタイトルロゴ・グラフィックデザインもリニューアルと同時にタイトルロゴがカタカナ表示の「ニュースステーション」から英語表記の「NEWS STATION」に変更。オープニング映像はその日の放送するニュース内容の告知を行うスタイルに変わった。リニューアル当初はトップニュースを合成したCGをバックにBGM付きで読み上げる演出もあったがすぐになくなった。

2000年3月27日、放送開始時間が6分繰り上がり、21:54開始のフライングスタートとなった。これにより終了時間も23:20→23:09と11分繰り上がった。同時に番組構成も若干変更が行われる。2000年4月14日、金曜日の女性スポーツキャスターの出演者のリニューアルが行われ、テレビ朝日を退社(後に嘱託社員[注 16]として復帰)した長島三奈に代わり、『進ぬ!電波少年』(日本テレビ系列)で注目を集めたタレント・女優の真中瞳(現・東風万智子)を起用。

同日よりNHKが本番組に対抗する形で同時間帯で『NHKニュース10』を開始。

2002年4月1日から6月28日までは日韓共催の2002 FIFAワールドカップ開催に伴い、オープニングで毎日FIFAワールドカップの歴史を流す特別オープニングに変更(川平慈英のナレーション入り。タイトルと日付は紹介後まとめて上にタイトル下に日付という形で表示された)。テーマ曲はCharが担当した。

2002年7月1日からテーマ曲がサラ・ブライトマンの曲に変更。また、角澤のスポーツ担当曜日がこれまでは月曜日から木曜日だったのが、月曜日から水曜日に縮小され、空いた木曜日には河野明子が担当することになった。その後、2002年9月27日を以って真中が降板。これと同時に番組開始から17年(一時期降板していた時期あり)出演してきた宜嗣も前田吟に代わり『スーパーモーニング』のメインキャスターに就任するため降板した。翌週から河野が金曜日も担当するようになり、月曜日から水曜日は角澤、木曜日・金曜日は河野がスポーツを担当する。

番組の終焉(2003年8月 - 2004年3月)

2003年8月25日、翌年春を以って本番組の放送を終了する事が発表された。久米はこの週は夏季休暇中だったが、この日移転前のテレビ朝日六本木6丁目本社ビル(六本木ヒルズ)で番組終了発表会見(公式には「来年(2004年)3月で降板」と発表)を開き、「十分にやった、スタミナ切れ」「2000年復帰後3年という話だったこと」ということを終了理由に挙げていた。

テレビ朝日・広瀬道貞社長は2003年9月30日の定例会見で、久米が3年ほど前から降板の意向を度々申し出ており、これ以上の慰留は出来ないと判断したため出演契約を2004年春で満了とする事で合意したことを明らかにした[18]

2003年9月29日、テレビ朝日の本社移転に伴い、放送スタジオがテレビ朝日アーク放送センター(アークヒルズ)からテレビ朝日六本木6丁目本社ビル(六本木ヒルズ)へ移りスタジオセットとテーマ曲をリニューアル。タイトルロゴはそのままで、色がオレンジ/黄色を基調としたものから青/水色を基調としたものに変更された。テーマ曲はU2が担当した。

2004年3月26日の最終回ではその日のニュースに加え、過去19年間のニュースの振り返り、現代の久米(と当時50歳の久米)が番組開始の1985年の本番組へタイムスリップ(という設定の演出)し、スタジオ見学をするなどの内容で放送され19年間の歴史に幕を下ろした(最終回の詳細は後述)。

後継番組は『報道ステーション』である。なお、角澤と河野・スポーツコーナーのみ関わっている宮嶋泰子栗山英樹は引き続き立ち上げ当初の『報ステ』にも出演することになった。

久米が会見で後継番組の初代メインキャスターを務める古舘伊知郎に関して記者に尋ねられた際、「いや、番組はなくなるって聞いていますから。存在しない番組に司会者が存在するわけないでしょ。」と発言した事に対し、雑誌のインタビューで古舘は「(久米を)冷たい男だなと思いましたけど。」「それから久米さん嫌いになったんですけど。」と述べた。その後には「半分は大先輩だと思って尊敬している。半分は嫌いっていうところに落ち着くんだけど。」と語った[19]。ただし、その後久米は「いかにつらいか、大変さが手に取るように分かる。(最近は)見ていないけど、無意識のうちに避けているのかもしれない」「自分は家を土台から造った。自由に造って来た。でも、彼はその土台を壊す事をさせてもらえずに、建物を造る様にさせられている。その事に苦労していると思う」と古舘を気遣うコメントをしたことがある[20][21]

  • また、久米は「古舘君をはじめ、かなりの人が勘違いしている。僕が『ニュースステーション』でかなりしゃべったというイメージを持っている方が多いんですが、ほとんどのニュースに関して、リード原稿は僕が読んでいたんです。僕が原稿を読んでいる時間が結講あったのを、フリートークだと思い込んで見ていた人がかなり多かった。このぐらいの時間、しゃべらないといけないんじゃないかと、後任者が思い込んだ可能性はあるんです。僕が本当にフリートークで話した時間は、短い時は2秒ぐらいですからね」とも述べている[22]

本番組の後継番組『報ステ』降板後もテレビ朝日への直接の出演を行う古舘伊知郎とは違い、久米は本番組終了後、テレビ朝日への直接の出演を一切行っていない[注 17]

なお、『報ステ』の初回放送は2004年4月5日であり、2004年3月29日 - 4月2日の当該時間帯は『ANN NEWS&SPORTS』をつなぎ番組として放送した。


注釈

  1. ^ 1993年4月19日から2004年3月26日まで実施。それ以前はモノラル放送を実施していた。
  2. ^ 表向きには、久米と筑紫哲也の2人がメインキャスターの有力候補と公表していたことがあった[2]
  3. ^ その『おしゃれ』も1987年4月に終了し、以後久米は最終回まで仕事はほぼ本番組に絞っていた。
  4. ^ しかし、番組開始に伴う番組編成の改編で、平日夜22時台に放送されていた番組を中心に放送時間が変更され、これに伴う視聴者離れで『特捜最前線』、間接的だが番組編成上の問題で『必殺シリーズ』が終了に追い込まれた。これらの改編に加え、1980年代後半から1990年代はテレビ朝日ではヒット番組に恵まれず視聴率において、終始4位(民放キー局、NHK総合テレビ除く)だった。
  5. ^ これを見ていた当時NHK記者池上彰がこれを応用し、1994年4月に『週刊こどもニュース』をスタートさせた。
  6. ^ テレビ朝日は1978年まで報道部門を自社ではなく朝日テレビニュース社に委託していた。
  7. ^ 但し初回の後クレは何故か「ここまでの放送は、スポンサー会社名の提供でお送りしました」だった。
  8. ^ 1985年6月14日の朝日新聞他4紙に掲載された全面広告ならびにテレビCMで番組名と久米のキャスター起用を伏せた上で募集広告を出したところ、問い合わせが1万件、5762名(内訳は、男性1811人、女性3547人、プロダクションなどの推薦404人。)の応募があった。半数は関東在住だが全都道府県から応募があり、海外からも5名の応募者がいた。中には夫婦で応募したものも3組いた。男性応募者の最高齢は当時79歳。女性応募者の最高齢は当時74歳だった[13]
  9. ^ 2009年1月 - 6月、金曜21時に『必殺仕事人2009』として放送。
  10. ^ 久米曰く「3Kトリオ」。
  11. ^ 中国で起きた高知学芸高等学校の修学旅行生を載せた列車が脱線した事故に関するニュースが中心。この日はゲストは呼ばず、Nスタジオから久米・小宮のみ、さらに放送時間が繰り下げられて23:30 - 24:15の45分枠(当時大相撲春場所の開催期間・「大相撲ダイジェスト」の放送と重なったため)での放送になった。
  12. ^ 正確には老眼鏡である(当時の久米は48歳)。
  13. ^ なお、小宮は降板後も当番組をベースとした国政選挙の開票特別番組『選挙ステーション』で、2003年11月の第43回衆議院議員総選挙の際まで久米と共に第1部のメインキャスターを務めた。
  14. ^ 1998年4月3日のみ、金曜にも出演。
  15. ^ また、リニューアル初日の前座番組『ビートたけしのTVタックル』の本編終了直後に流れたクロスプログラムでも真理がテレビ朝日局内の廊下を歩く映像を流した。
  16. ^ 2001年2月1日から2014年1月31日まで。
  17. ^ ただし、BS朝日・番組のネット局であった朝日放送テレビへは出演歴あり。
  18. ^ 降板後に出演した『探偵!ナイトスクープ』(朝日放送テレビ、関西ローカル)では「ニュースステーションで久米さんに嫌われた若林さん」とネタにされていた。
  19. ^ ただ、2018年10月1日から2019年9月26日までは月曜から木曜に限り5分拡大し23:15まで放送していた。
  20. ^ 1982年の第1回熱闘甲子園のみ21時開始。1983年の第2回以降1989年まで22時開始がずっと定着していた。
  21. ^ 局内では、20時台の『ビートたけしのスポーツ大将』と『さすらい刑事 - 』の2番組を全面差し替えする案も出ていたという。
  22. ^ この年、ジャイアンツは近鉄バファローズに第1戦から3連敗しながらも、第4戦以降4連勝して日本一に輝いた。
  23. ^ それから25年後の2020年1月17日、サンテレビで放送された震災関連の特番に小宮がゲスト出演し、当番組放送以来の同局出演を果たした[26]。また、久米も同日に朝日放送テレビのローカル報道番組『キャスト』の特番『キャスト特別企画 久米宏が語る震災25年』にゲスト出演した。
  24. ^ 1995年頃から事ある毎に週刊誌で「久米降板」説が取り沙汰された。冒頭に述べた降板発表後にも「病気で目が見えなくなった」などという憶測の記事が書かれたが、久米はこの10月6日の放送できっぱりと否定した。
  25. ^ この様子を収めたVTRの前に久米は「僕はあの、この人のことはそれほど苦手ではありません」とコメントした。また、このVTRが終わったところでCM入りしたため、CM前には画面右下に「最終回 快調に放送中!」とテロップを表示していた。
  26. ^ 放送では商品名が映らないようにラベルをカメラに見えない方に隠していたが、実際このときのビール瓶には美術スタッフに発注して用意した『NEWS STATION BEER 全4795回』というオリジナルラベルが貼られており、王冠にも番組ロゴが貼り付けられていたとされている。
  27. ^ 1995年から1998年までの金曜版は、小宮とスタジオサブキャスターの2人で交互に伝えていた。
  28. ^ 番組前半で伝えたものも含めてニュース項目は原則、時系列順に並べていた。また80年代は円相場もこの中で伝えていた(ニュース項目の一番下段に為替を表示)。
  29. ^ この台詞は最終回のエンディングで流れた予告編「久米的電視台」(前述)でも使われた(久米と中国人女性の2人でこの台詞をコール)。
  30. ^ 荻野目洋子『湾岸太陽族』、B'z『LOVE & CHAIN』など。
  31. ^ 機甲戦記ドラグナー」OP『夢色チェイサー』、「からくり剣豪伝ムサシロード」ED『てなもんだ人生』など。
  32. ^ コメンテーターは基本的に映ることはないが、3人のうち1人が不在の場合は、コメンテーターも背にして進行を行うこともある。
  33. ^ 1977年から2003年までのテレビ朝日の正式社名。
  34. ^ 具体的な事例としては石坂産業を参照のこと。
  35. ^ 但し、石川県以外の北陸山陰四国九州などごく一部の地域ではフルネットを未だに開局できていない地域がある。また沖縄県の琉球朝日放送も、この番組の放送当時は沖縄本島久米島にしか中継局がなく、先島諸島宮古島石垣島)と大東諸島北大東島南大東島)ではケーブルテレビを含め視聴できなかった。
  36. ^ 実際は9月24日のサービス放送開始日から(出典:1991年9月24日以降の東奥日報テレビ欄)
  37. ^ なお、翌日朝のローカル情報番組『おはようコールABC』や『おはよう朝日です』において、ニュースコーナーやスポーツコーナーで当番組の映像素材を流用することがあった。

出典

  1. ^ a b 2007年4月5日スポーツニッポン「小宮悦子、2度目の離婚 10歳“姉さん婚”から12年--「女性セブン」報じる」
  2. ^ a b 週刊TVガイド 1985年7月12日号 28頁「レポート・『特捜最前線』などテレビ朝日の人気番組が枠移動」
  3. ^ 嶌信彦『メディア 影の権力者たち』1995年4月講談社 ISBN 4062076284[要ページ番号]
  4. ^ 読売新聞夕刊 1985年10月16日。
  5. ^ ウェザーニューズ 報道気象の歴史』 株式会社ウェザーニューズ (PDF)
  6. ^ 朝日新聞縮刷版の番組表を確認[要文献特定詳細情報]
  7. ^ 久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、138頁。
  8. ^ 久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、141・148頁。
  9. ^ 久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、141~149頁。
  10. ^ 久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、156・157頁。
  11. ^ 久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、157・158頁。
  12. ^ 久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、162・163頁。
  13. ^ 『朝日新聞』、1985年7月28日朝刊、23面。
  14. ^ a b 久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、12・13頁。
  15. ^ 久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、159頁。
  16. ^ 第27回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. 2014年11月14日閲覧。
  17. ^ 第30回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. 2014年11月14日閲覧。
  18. ^ 広瀬道貞社長 定例社長会見要旨(2003年9月30日)
  19. ^ 古舘伊知郎が懺悔告白“テレビはウソしか伝えていない”,LITERA,2014年7月15日
  20. ^ 『久米宏と1日まるごと有楽町放送局』での公開記者会見にて発言
  21. ^ 久米宏過激に復帰 渡辺前オーナー口撃,Sponichi Annex,2004年9月21日
  22. ^ [1],スポーツニッポン,2016年4月23日
  23. ^ a b c 『企業と広告』第23巻第10号、チャネル、1997年10月1日、42頁、NDLJP:2853175/24 
  24. ^ a b テレビ朝日では1985年10月7日から1987年5月29日までは『ニューヨーク情報』、1987年6月1日から2001年9月28日までは『世界の車窓から』。なお、『世界の車窓から』は2001年10月1日より23:10 - 23:15に移動。
  25. ^ 8人埋まった現場で叫んだ商店主 取材したフリーアナ久米宏さんと再会”. 神戸新聞(2020年1月6日作成). 2020年1月19日閲覧。
  26. ^ 小宮悦子がサンテレビの震災特番「バトン1.17~あなたへ~」に出演 17日放送”. デイリースポーツ(2020年1月10日作成). 2020年1月19日閲覧。
  27. ^ a b c d e f g h “農家「ツケ負わされた」 産廃施設、報道後に激減”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 18(夕刊・社会). (2003年10月16日) 
  28. ^ 久米宏Nステ休業「14年間に疲れ」 - ウェイバックマシン(2000年5月27日アーカイブ分)
  29. ^ やっぱり…久米宏Nステ降板の舞台裏 - ウェイバックマシン(2000年4月13日アーカイブ分)
  30. ^ 久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、306頁
  31. ^ 久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、305 - 307頁
  32. ^ 久米Nステ復帰も降板問題再燃? - ウェイバックマシン(2000年3月2日アーカイブ分)
  33. ^ 『朝日新聞』、2000年1月4日付朝刊、36面。
  34. ^ 久米宏、今晩Nステ復帰 - ウェイバックマシン(2000年3月1日アーカイブ分)
  35. ^ 久米宏、Nステに緊急復帰 - ウェイバックマシン(2001年10月31日アーカイブ分)
  36. ^ 「さようならN.S」(アーカイブ)
  37. ^ 久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、288頁。
  38. ^ a b 久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、286頁。
  39. ^ 『鹿児島放送30年のあゆみ』鹿児島放送、2013年 p.15, p.36
  40. ^ 久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、181頁。
  41. ^ 鈴木秀美・山田健太・砂川浩慶 編『放送法を読みとく』p.86 2009年 商事法務
  42. ^ 「所沢の方には迷惑かけた(笑)」 久米宏が「ダイオキシン騒動」振り返る J-castニュース
  43. ^ 久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、186~188頁。
  44. ^ 久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、190・191頁。
  45. ^ a b テレビ美術から見る 「キャスターショー」の誕生と発展 ~『ニュースセンター9時』と『ニュースステーション』のスタジオセット分析を中心に~』、NHK放送文化研究所 2009年11月4日(2017年2月19日閲覧)、p.8-9。
  46. ^ a b c d テレビ美術から見る 「キャスターショー」の誕生と発展 ~『ニュースセンター9時』と『ニュースステーション』のスタジオセット分析を中心に~』、NHK放送文化研究所 2009年11月4日(2017年2月19日閲覧)、p.11。
  47. ^ 番組ホームページ内の初代~3代目の紹介ページ(アーカイブ)
  48. ^ テレビ朝日ホームページ内の3代目セット紹介(アーカイブ)
  49. ^ 番組ホームページ内の4代目セットの紹介(アーカイブ)
  50. ^ 作品リストー舞台・他ーニュースステーション - 大澤製作所
  51. ^ a b c d テレビ美術から見る 「キャスターショー」の誕生と発展 ~『ニュースセンター9時』と『ニュースステーション』のスタジオセット分析を中心に~』、NHK放送文化研究所 2009年11月4日(2017年2月19日閲覧)、p.9。
  52. ^ 久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』2017年9月25日、世界文化社、189・190頁。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ニュースステーション」の関連用語

ニュースステーションのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ニュースステーションのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのニュースステーション (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS