日本軍の戦略とは? わかりやすく解説

日本軍の戦略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/22 04:41 UTC 版)

ミンダナオ島の戦い」の記事における「日本軍の戦略」の解説

日本陸軍は、ミンダナオ島レイテ島並んで第35軍司令官鈴木宗作中将)の担当地区としており、レイテ島第35軍司令部脱出させてミンダナオ島配置し、「永久抗戦態勢構築しようと考えていた。ミンダナオ島には第30師団師団長両角業作中将)と第100師団師団長原田次郎中将)、独立混成54旅団旅団長北条藤吉少将)などが駐留していた。これは、ルソン島除けばフィリピン残存日本軍の中で最大兵力であった。もっとも、第30師団は、隷下3個歩兵連隊のうち2個をレイテ島増援として派遣してしまっており、戦力半減していた。他の2部隊も治安維持任務軽装部隊で、もともと大きな戦力有しなかった。サンボアンガに独混第54旅団ダバオ第100師団配置され第30師団北岸カガヤンから中部一帯にかけて分散配置されていた。島内ゲリラ活動が非常に活発なこともあり、広大な地域分散した日本軍連絡は困難を極め結果的に各個撃破されることとなった。 このほか、第32特別根拠地隊陸軍第2飛行師団がいたが、艦艇航空機はほとんど失われていた。第32特別根拠地隊は、隷下の第33警備隊サンボアンガを守らせ、そのほか設営隊などを改編した陸戦隊4個大隊ダバオ付近に配置して地上戦備えていた。 また、ミンダナオ島には日本人民間人多数在住していた。その多くダバオ住んでおり、ミンダナオ島の戦い時点では少なくとも5000であった

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日本軍の戦略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 16:39 UTC 版)

グアムの戦い」の記事における「日本軍の戦略」の解説

日本軍開戦間もなくグアム島陸海軍共同作戦攻略した攻略後にグアム島日本名大宮島名づけグアム島攻略時の海軍陸戦隊隊長であった弘中佐を司令として、第5根拠地隊隷下に第54警備隊編成した。第54警備隊アガナ日本名 明石)市に司令部設置しグアム防衛警備を担うこととなった。 だが、昭和18年後期頃より中部太平洋方面での戦局緊迫の度を増すに連れてグアム島を含むマリアナ諸島絶対国防圏一角として戦略的な価値増大しグアム島海軍警備隊だけでは戦力不足である為、マリアナ防衛線の重要な拠点として戦力強化図られることになった昭和19年1月グアム島防衛強化為に満洲の第29師団高品彪師団長)がグアム派遣されることとなり、3月グアム到着した。しかし第29師団歩兵第18連隊師団直轄部隊一部乗船した輸送船崎戸丸が、沖大東島南方200kmでアメリカ潜水艦トラウト雷撃撃沈された。トラウトその後護衛駆逐艦朝霜撃沈された。歩兵第18連隊連隊長を含む1,657名が海没し壊滅状態陥ったため、一旦サイパン島上陸し再編成後グアム配置された。 その後も、独立混成48旅団重松潔旅団長)、独立混成10連隊片岡一郎連隊長)、戦車第9連隊第一第二中隊、その他野戦高射砲大隊海軍部隊など順次増強が行われた。独立混成48旅団独立混成10連隊は第29師団同様に関東軍からの転用であったが、いずれも精鋭師団である第1師団第11師団から抽出された部隊編成されており、北満国境虎林孫呉最前線駐屯していた最精鋭部隊であった。 日本軍の戦略は、昭和18年10月大本営より対上陸戦闘の指針とされた「島嶼守備隊戦闘教令」にて示された「洋上撃破水際撃滅」が根本思想であり、グアム防衛もその根本思想沿って計画された。 第31軍作戦方針主なもの以下の通りであった事前艦砲射撃空爆に対して我が配備企画秘匿務めこの間守備隊陣地兵力温存補修務め水際第一線陣地海岸付近堅固な地形利用し陣地構築し、敵の上部隊に対しては、主兵力上陸用舟艇指向し水中水際障害物と陸岸の間で撃滅する 砲兵重火器は、水上水際での火力発揚主眼として、その主火力ハガニア湾(日本名 明石湾)に向ける。大口径の海岸砲台は沖合輸送船大型上陸用舟艇射撃できる様に海岸台上砲座配置する 攻撃部隊上陸してきたら、海岸線背後山地帯構築した逆襲陣地利用して、機を見て反撃転じ水際撃滅を図る 戦車明石方面への反撃戦力とする 陸軍部隊第一線部隊とし、海軍部隊陸戦隊を除く)は状況により予備隊として運用するグアム島海岸断崖多く大部隊が上陸できる海岸限られており、日本軍アメリカ軍の上陸地点をアデラップ岬(日本軍呼称 見晴岬)以東ハガニア湾(明石湾)を中心としたアガット湾(昭和湾)正面予想して部隊配置し陣地構築行った。 それで、第31軍作戦方針沿った陣地の構築要領として、第29師団司令部より以下が徹底された。 第一次構築すべき野戦陣地は敵の上企画水際一挙に敵を撃滅できる様にし、一部上陸されたら直ち水面にて反撃し殲滅できる編成 敵の艦砲射撃中核陣地破壊されないような編成 多数予備陣地及び偽陣地構築し上空海上から遮蔽する上の様に、「洋上撃破水際撃滅」を基本とした、作戦陣地構築であったが、ソロモン諸島の戦いギルバート・マーシャル諸島の戦い戦訓検証し艦砲射撃空爆対す対策指示されている。しかし、マリアナ諸島でのアメリカ軍艦砲射撃空爆は、日本軍想定以上に強化されていた為、以前戦訓による対策では全く不十分であることを後日痛感させられる事となった。 陣地構築は、資材(特にセメント)の不足により、なかなか進まなかったが、自然の洞窟活用して全島300箇所機関銃座セメント代わりに石灰岩木材使った掩体70箇所完成させた。また上障害物として椰子の木と鉄線金網利用した障害物や、対人障害物鹿砦や対舟艇用の拒馬など700個を海岸線設置したまた、29師団司令部グアム進駐同時に在留邦人内地帰還企画し邦人らの意向確認したところ、アメリカ統治下より居住していた邦人以外は内地への帰還希望した為、婦女子から優先して内地行き輸送船50名ずつ乗船させたが、2回目終わったところでアメリカ軍潜水艦跳梁により送還不可能となり、150名(男100名 女50名)がグアム島残され戦闘巻き込まれる事となった。 航空戦力整備については、グアムにはアメリカ統治中に飛行場はなかった為に占領後海軍により設営開始され昭和19年2月グアム第一飛行場完成した。また「あ」号作戦に伴うマリアナでの航空戦力増強策の一環として、第2飛行場間もなく着工され4月には完成している。更に第4飛行場まで計画されていたが完成しなかった。 航空戦力配備進み昭和19年6月には、61航戦 263空 零戦4機 521空 銀河4022航戦 202空 零戦8機 755空 一式陸上攻撃機12機がグアム配備された。 サイパン島上陸先立ちアメリカ軍機動部隊艦載機が、マリアナ各島航空基地爆撃グアムにも6月11日延べ139機が来襲し、521空銀河トラック島フィリピン分散され1415機しか残っていなかった為、この日でほぼ全機撃破された。一方で基地航空隊迎撃で7機を撃墜するも零戦4機を失った残った755空の陸航隊も、機動部隊対し3度渡って出撃雷撃仕掛けるも戦果なく壊滅零戦12日空襲への迎撃14機中13機が未帰還となり、グアム航空戦力は、アメリカ軍の上陸待たず全滅した。 やがてアメリカ軍サイパン島上陸してきたが、その際中部太平洋管轄していた第31軍司令官小畑英良中将パラオ出張中で、サイパン島帰ることができず、やむなくグアム上陸し指揮とっていた。サイパン島玉砕により第31軍司令部壊滅すると、第31軍司令部グアム再編成されサイパン戦死した井桁敬治参謀長後任として、中部太平洋方面艦隊参謀副長として海軍との調整役当たっていた田村義冨少将任命された。 その後グアム対す上陸作戦アメリカ軍諸事情詳細は#アメリカ軍の戦略参照)により、サイパン島上陸から1ヶ月以上ずれ込んだため、サイパンの戦い水際撃滅海岸線配置していた部隊陣地が、アメリカ軍激し艦砲射撃大きな損害被った事がグアム守備隊にも伝わり日本軍海岸陣地偽陣地多数設置しアメリカ軍欺瞞する事や、歩兵の砲爆撃による損害を減らすため歩兵陣地を縦深配置とするなどの陣地改良を行う事ができ、上陸前日までの砲爆撃による人的損害100名以下に抑えることに成功している。

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日本軍の戦略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:17 UTC 版)

沖縄戦」の記事における「日本軍の戦略」の解説

1944年昭和19年)に入りトラック島空襲など連合国軍太平洋正面での反攻本格化してくると、マリアナ諸島などを前線とする絶対国防圏での決戦構想していた当時日本軍は、後方拠点として南西諸島防備着手した1944年2月日本陸軍沖縄防衛担当する32軍を編成司令官には渡辺正夫中将任命された。もっとも、この時点での第32軍の主任務は飛行場建設であり、奇襲備えた警備程度兵力であった同年4月には、海軍沖縄方面根拠地隊置いたが、その司令官九州・沖縄間のシーレーン防衛任務とする第4海上護衛隊司令官兼務し防衛戦力というより後方組織としての性格強かった日本軍本格的に沖縄地上戦準備取り組んだきっかけは、1944年7月アメリカ軍攻撃を受け絶対国防圏の要であるサイパン島陥落したことであった大本営は、捷二号作戦立案して沖縄周辺海上での航空決戦企図するとともに陸上の第32軍の増強にも着手した1944年7月に第32軍の参謀長就任した 長勇少将は、早速大本営参謀本部乗り込むと「沖縄本島には5個師団増強せよ!吾輩意見採用せず、ために沖縄玉砕するようになれば、参謀本部全員腹を斬れ」と怪気炎上げている。参謀本部長の要求応えるかのように1944年7月沖縄本島第9師団7月末に宮古島第28師団8月第24師団と第62師団増派、諸砲兵部隊統括する第5砲兵司令部配置、その司令官には砲兵権威だった和田孝中将充てられるなど、沖縄本島中心とする南西諸島には4個師団混成5個旅団、1個砲兵団の合計18万人大兵力が配置されることとなったその中で増援独立混成第44旅団乗った軍隊輸送船富山丸」がアメリカ軍潜水艦撃沈され、4,000人近く死亡到達したのは約600人という、先行き不安視させる事件起きている。 戦力増強が進む中で司令官渡辺疲労により持病胃下垂悪化病床につくこととなってしまった。渡辺希望により病状中央伏せられていたが、病状一向に回復しなかったため、長らはやむなく軍中央に渡辺病状報告し1944年8月11日陸軍士官学校校長であった牛島満中将新たな32軍司令官として着任した牛島同郷鹿児島県)の偉人西郷隆盛例えられるような 泰然自若とした父親のような人物であり、部下将兵からは尊敬されていた。陸軍士官学校陸軍公主嶺学校などの校長歴任した教育畑の経歴ながら、歩兵36旅団旅団長として日中戦争では武功重ねており、アメリカ軍からは「牛島将軍は、物静かな極めて有能な人で、全将兵心服していた。」と評価されている。 第32軍の高級参謀八原博通大佐であった。八原は最年少入学した陸軍大学校(第41期)を優等卒業しアメリカ留学歴もあるエリート軍人で、尚且つ理性的知己的な欧米型の思考を持つ軍人であり、理詰め地味だ確実に成功する戦術唱える日本陸軍では異端軍人であった。のちにその作戦苦戦させられることになったアメリカ軍から八原は「すぐれた戦術家として名声欲しいままにし、その判断には計画性があった」と高く評価されることとなった当初、八原は充実した戦力で、敵上陸時主力機動させての決戦計画した連合国軍の上陸点を小禄牧港嘉手納いずれか想定、3か所の上予想地点それぞれ1個師団ずつを配置し連合国軍上陸してきたら、その担当師団構築した陣地立て籠もり上陸軍を橋頭堡にて阻止その間に2個師団上陸地点向けて進軍し集結移動敵航空機攻撃のない夜間)、上陸2日目夜に砲兵全力結集し橋頭堡殲滅射撃実施その後歩兵突撃し上陸軍を粉砕するという作戦考え、各師団機動の猛訓練を行わせた。 長は、海際上陸軍を阻止する強固な陣地構築必要な鑿岩機20台の支給要求し大本営確約したが、いつまで待って鑿岩機到着しないため、長は大本営陸軍中央から何らかの要求連絡があるたびに鑿岩機しつこく要求し続けたその内大本営陸軍中央では長と言えば鑿岩機連想されるほど有名となった第32軍首脳陣は、マリアナフィリピン戦での航空作戦経過見て航空作戦疑念不信抱いており、飛行場より地上戦強化注力していたが、航空作戦重視大本営はそれを「手抜き」と厳しく32軍を非難した大本営陸軍部はまず作戦航空班長鹿子島中佐を沖縄派遣鹿子島は第32参謀を「今回、貴軍に強力な地上兵力増加したが、航空作戦準備十分な協力されない場合は、増加した地上兵力を他に移さねばなりません。」と脅すと、第32軍もさすがに折れて大本営方針受け入れこととした。大本営飛行場作り名人と言われ飛行場設定練習部員釜井中佐を第32参謀補職し、戦闘部隊建設作業大規模投入して飛行場設営急ピッチで進められた。 飛行場扱いについては、航空決戦為の飛行場重視大本営などの中央と、地上戦重視の第32軍の考え違い連合国軍上陸後作戦にも大きく影響することとなった。 第32軍の作戦準備並行して沖縄島民の疎開進められた。(#アメリカ軍上陸前の住民動き避難))

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