日本軍の戦略
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日本陸軍は、ミンダナオ島をレイテ島と並んで第35軍(司令官:鈴木宗作中将)の担当地区としており、レイテ島の第35軍司令部を脱出させてミンダナオ島に配置し、「永久抗戦」態勢を構築しようと考えていた。ミンダナオ島には第30師団(師団長:両角業作中将)と第100師団(師団長:原田次郎中将)、独立混成第54旅団(旅団長:北条藤吉少将)などが駐留していた。これは、ルソン島を除けば、フィリピンの残存日本軍の中で最大の兵力であった。もっとも、第30師団は、隷下3個歩兵連隊のうち2個をレイテ島へ増援として派遣してしまっており、戦力は半減していた。他の2部隊も治安維持任務の軽装備部隊で、もともと大きな戦力は有しなかった。サンボアンガに独混第54旅団、ダバオに第100師団が配置され、第30師団は北岸のカガヤンから中部一帯にかけて分散配置されていた。島内はゲリラの活動が非常に活発なこともあり、広大な地域に分散した日本軍の連絡は困難を極め、結果的に各個撃破されることとなった。 このほか、第32特別根拠地隊や陸軍第2飛行師団がいたが、艦艇や航空機はほとんど失われていた。第32特別根拠地隊は、隷下の第33警備隊にサンボアンガを守らせ、そのほか設営隊などを改編した陸戦隊4個大隊をダバオ付近に配置して地上戦に備えていた。 また、ミンダナオ島には日本人の民間人も多数が在住していた。その多くはダバオに住んでおり、ミンダナオ島の戦いの時点では少なくとも5000人であった。
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日本軍の戦略
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日本軍は開戦間もなくグアム島を陸海軍共同作戦で攻略した。攻略後にグアム島を日本名大宮島と名づけ、グアム島攻略時の海軍陸戦隊隊長であった林弘中佐を司令として、第5根拠地隊の隷下に第54警備隊を編成した。第54警備隊はアガナ(日本名 明石)市に司令部を設置し、グアムの防衛と警備を担うこととなった。 だが、昭和18年後期頃より中部太平洋方面での戦局が緊迫の度を増すに連れて、グアム島を含むマリアナ諸島が絶対国防圏の一角として戦略的な価値が増大し、グアム島も海軍の警備隊だけでは戦力不足である為、マリアナ防衛線の重要な拠点として戦力の強化が図られることになった。 昭和19年1月にグアム島防衛強化の為に、満洲の第29師団(高品彪師団長)がグアムに派遣されることとなり、3月にグアムに到着した。しかし第29師団の歩兵第18連隊と師団直轄部隊の一部が乗船した輸送船の崎戸丸が、沖大東島南方200kmでアメリカの潜水艦トラウトの雷撃で撃沈された。トラウトはその後に護衛の駆逐艦朝霜に撃沈された。歩兵第18連隊は連隊長を含む1,657名が海没し壊滅状態に陥ったため、一旦サイパン島に上陸し、再編成後にグアムに配置された。 その後も、独立混成第48旅団(重松潔旅団長)、独立混成第10連隊(片岡一郎連隊長)、戦車第9連隊の第一、第二中隊、その他野戦高射砲大隊や海軍部隊など順次増強が行われた。独立混成第48旅団と独立混成第10連隊は第29師団同様に関東軍からの転用であったが、いずれも精鋭師団である第1師団と第11師団から抽出された部隊で編成されており、北満国境の虎林・孫呉の最前線に駐屯していた最精鋭部隊であった。 日本軍の戦略は、昭和18年10月に大本営より対上陸戦闘の指針とされた「島嶼守備隊戦闘教令」にて示された「洋上撃破・水際撃滅」が根本思想であり、グアムの防衛もその根本思想に沿って計画された。 第31軍の作戦方針の主なものは以下の通りであった。 事前の艦砲射撃・空爆に対しては我が配備や企画の秘匿に務め、この間守備隊は陣地や兵力の温存・補修に務める 水際の第一線陣地は海岸付近の堅固な地形を利用し陣地を構築し、敵の上陸部隊に対しては、主兵力を上陸用舟艇に指向し、水中・水際障害物と陸岸の間で撃滅する 砲兵・重火器は、水上と水際での火力発揚を主眼として、その主火力をハガニア湾(日本名 明石湾)に向ける。大口径の海岸砲台は沖合の輸送船や大型上陸用舟艇を射撃できる様に海岸台上の砲座に配置する 攻撃部隊が上陸してきたら、海岸線と背後の山地帯に構築した逆襲陣地を利用して、機を見て反撃に転じ水際撃滅を図る 戦車は明石湾方面への反撃戦力とする 陸軍部隊は第一線部隊とし、海軍諸部隊(陸戦隊を除く)は状況により予備隊として運用する。 グアム島の海岸は断崖が多く、大部隊が上陸できる海岸は限られており、日本軍はアメリカ軍の上陸地点をアデラップ岬(日本軍呼称 見晴岬)以東ハガニア湾(明石湾)を中心としたアガット湾(昭和湾)正面と予想して部隊配置し陣地構築を行った。 それで、第31軍の作戦方針に沿った陣地の構築要領として、第29師団司令部より以下が徹底された。 第一次に構築すべき野戦陣地は敵の上陸企画を水際で一挙に敵を撃滅できる様にし、一部上陸されたら直ちに水面にて反撃し殲滅できる編成 敵の艦砲射撃に中核陣地を破壊されないような編成 多数の予備陣地及び偽陣地を構築し、上空や海上から遮蔽する 以上の様に、「洋上撃破・水際撃滅」を基本とした、作戦と陣地構築であったが、ソロモン諸島の戦いやギルバート・マーシャル諸島の戦いの戦訓を検証し、艦砲射撃や空爆に対する対策も指示されている。しかし、マリアナ諸島でのアメリカ軍の艦砲射撃や空爆は、日本軍の想定以上に強化されていた為、以前の戦訓による対策では全く不十分であることを後日痛感させられる事となった。 陣地構築は、資材(特にセメント)の不足により、なかなか進まなかったが、自然の洞窟も活用して、全島で300箇所の機関銃座、セメントの代わりに石灰岩や木材も使った砲掩体も70箇所完成させた。また上陸障害物として椰子の木と鉄線や金網を利用した障害物や、対人用障害物の鹿砦や対舟艇用の拒馬など700個を海岸線に設置した。 また、第29師団司令部はグアム進駐と同時に在留邦人の内地帰還を企画し、邦人らの意向を確認したところ、アメリカ統治下より居住していた邦人以外は内地への帰還を希望した為、婦女子から優先して、内地行きの輸送船に50名ずつ乗船させたが、2回目が終わったところでアメリカ軍の潜水艦の跳梁により送還不可能となり、150名(男100名 女50名)がグアム島に残され、戦闘に巻き込まれる事となった。 航空戦力の整備については、グアムにはアメリカ統治中に飛行場はなかった為に占領後に海軍により設営が開始され、昭和19年2月にグアム第一飛行場が完成した。また「あ」号作戦に伴うマリアナでの航空戦力増強策の一環として、第2飛行場も間もなく着工され4月には完成している。更に第4飛行場まで計画されていたが完成しなかった。 航空戦力の配備も進み、昭和19年6月には、61航戦 263空 零戦4機 521空 銀河40機 22航戦 202空 零戦8機 755空 一式陸上攻撃機12機がグアムに配備された。 サイパン島上陸に先立ち、アメリカ軍の機動部隊の艦載機が、マリアナ各島の航空基地を爆撃、グアムにも6月11日に延べ139機が来襲し、521空の銀河はトラック島やフィリピンに分散され14〜15機しか残っていなかった為、この日でほぼ全機撃破された。一方で基地航空隊の迎撃で7機を撃墜するも零戦4機を失った。 残った755空の陸航隊も、機動部隊に対し3度に渡って出撃し雷撃を仕掛けるも戦果なく壊滅、零戦も12日の空襲への迎撃で14機中13機が未帰還となり、グアムの航空戦力は、アメリカ軍の上陸を待たずに全滅した。 やがてアメリカ軍がサイパン島に上陸してきたが、その際中部太平洋を管轄していた第31軍の司令官・小畑英良中将はパラオへ出張中で、サイパン島へ帰ることができず、やむなくグアムに上陸し指揮をとっていた。サイパン島の玉砕により第31軍司令部が壊滅すると、第31軍司令部はグアムで再編成され、サイパンで戦死した井桁敬治参謀長の後任として、中部太平洋方面艦隊参謀副長として海軍との調整役に当たっていた田村義冨少将が任命された。 その後グアムに対する上陸作戦がアメリカ軍の諸事情(詳細は#アメリカ軍の戦略を参照)により、サイパン島上陸から1ヶ月以上ずれ込んだため、サイパンの戦いで水際撃滅で海岸線に配置していた部隊や陣地が、アメリカ軍の激しい艦砲射撃で大きな損害を被った事がグアム守備隊にも伝わり、日本軍は海岸陣地に偽陣地を多数設置しアメリカ軍を欺瞞する事や、歩兵の砲爆撃による損害を減らすため、歩兵陣地を縦深配置とするなどの陣地改良を行う事ができ、上陸前日までの砲爆撃による人的損害を100名以下に抑えることに成功している。
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日本軍の戦略
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1944年(昭和19年)に入りトラック島空襲など連合国軍の太平洋正面での反攻が本格化してくると、マリアナ諸島などを前線とする絶対国防圏での決戦を構想していた当時の日本軍は、後方拠点として南西諸島の防備に着手した。1944年2月に日本陸軍は沖縄防衛を担当する第32軍を編成、司令官には渡辺正夫中将が任命された。もっとも、この時点での第32軍の主任務は飛行場建設であり、奇襲に備えた警備程度の兵力であった。同年4月には、海軍も沖縄方面根拠地隊を置いたが、その司令官は九州・沖縄間のシーレーン防衛を任務とする第4海上護衛隊司令官を兼務し、防衛戦力というより後方組織としての性格が強かった。 日本軍が本格的に沖縄地上戦の準備に取り組んだきっかけは、1944年7月にアメリカ軍の攻撃を受け絶対国防圏の要であるサイパン島が陥落したことであった。大本営は、捷二号作戦を立案して沖縄周辺海上での航空決戦を企図するとともに、陸上の第32軍の増強にも着手した、1944年7月に第32軍の参謀長に就任した 長勇少将は、早速大本営参謀本部に乗り込むと「沖縄本島には5個師団を増強せよ!吾輩の意見を採用せず、ために沖縄が玉砕するようになれば、参謀本部は全員腹を斬れ」と怪気炎を上げている。参謀本部も長の要求に応えるかのように1944年7月に沖縄本島に第9師団、7月末に宮古島に第28師団、8月に第24師団と第62師団を増派、諸砲兵部隊を統括する第5砲兵司令部も配置、その司令官には砲兵の権威だった和田孝助中将が充てられるなど、沖縄本島を中心とする南西諸島には4個師団、混成5個旅団、1個砲兵団の合計18万人の大兵力が配置されることとなった。その中で増援の独立混成第44旅団が乗った軍隊輸送船「富山丸」がアメリカ軍潜水艦に撃沈され、4,000人近くが死亡、到達したのは約600人という、先行きを不安視させる事件も起きている。 戦力増強が進む中で司令官の渡辺は疲労により持病の胃下垂が悪化、病床につくこととなってしまった。渡辺の希望により病状は中央に伏せられていたが、病状が一向に回復しなかったため、長らはやむなく軍中央に渡辺の病状を報告し、1944年8月11日に陸軍士官学校の校長であった牛島満中将が新たな第32軍司令官として着任した。牛島は同郷(鹿児島県)の偉人西郷隆盛に例えられるような 泰然自若とした父親のような人物であり、部下将兵からは尊敬されていた。陸軍士官学校や陸軍公主嶺学校などの校長を歴任した教育畑の経歴ながら、歩兵第36旅団旅団長として日中戦争では武功を重ねており、アメリカ軍からは「牛島将軍は、物静かな、極めて有能な人で、全将兵が心服していた。」と評価されている。 第32軍の高級参謀は八原博通大佐であった。八原は最年少で入学した陸軍大学校(第41期)を優等で卒業し、アメリカに留学歴もあるエリート軍人で、尚且つ理性的で知己的な欧米型の思考を持つ軍人であり、理詰めで地味だが確実に成功する戦術を唱える、日本陸軍では異端の軍人であった。のちにその作戦に苦戦させられることになったアメリカ軍から八原は「すぐれた戦術家としての名声を欲しいままにし、その判断には計画性があった」と高く評価されることとなった。 当初、八原は充実した戦力で、敵上陸時に主力を機動させての決戦を計画した。連合国軍の上陸点を小禄、牧港、嘉手納のいずれかと想定、3か所の上陸予想地点にそれぞれ1個師団ずつを配置し、連合国軍が上陸してきたら、その担当師団が構築した陣地に立て籠もり上陸軍を橋頭堡にて阻止、その間に2個師団が上陸地点に向けて進軍し集結(移動は敵航空機の攻撃のない夜間)、上陸2日目の夜に砲兵の全力を結集し橋頭堡の殲滅射撃を実施、その後歩兵が突撃し上陸軍を粉砕するという作戦を考え、各師団に機動の猛訓練を行わせた。 長は、海際で上陸軍を阻止する強固な陣地構築に必要な鑿岩機20台の支給を要求し、大本営も確約したが、いつまで待っても鑿岩機が到着しないため、長は大本営や陸軍中央から何らかの要求や連絡があるたびに鑿岩機をしつこく要求し続けた。その内大本営や陸軍中央では長と言えば鑿岩機が連想されるほど有名となった。 第32軍首脳陣は、マリアナやフィリピン戦での航空作戦の経過を見て航空作戦に疑念や不信を抱いており、飛行場より地上戦備強化に注力していたが、航空作戦重視の大本営はそれを「手抜き」と厳しく第32軍を非難した。大本営陸軍部はまず作戦課航空班長の鹿子島中佐を沖縄に派遣、鹿子島は第32軍参謀を「今回、貴軍に強力な地上兵力を増加したが、航空作戦準備に十分な協力をされない場合は、増加した地上兵力を他に移さねばなりません。」と脅すと、第32軍もさすがに折れて、大本営の方針を受け入れることとした。大本営は飛行場作りの名人と言われた飛行場設定練習部部員釜井中佐を第32軍参謀に補職し、戦闘部隊を建設作業へ大規模投入して飛行場設営が急ピッチで進められた。 飛行場の扱いについては、航空決戦の為の飛行場重視の大本営などの中央と、地上戦備重視の第32軍の考えの違いが連合国軍上陸後の作戦にも大きく影響することとなった。 第32軍の作戦準備と並行して、沖縄島民の疎開も進められた。(#アメリカ軍上陸前の住民の動き(避難))
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