庄内藩 庄内藩の概要

庄内藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 14:10 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を置いた。支藩に大山藩松山藩がある。

転封の多い譜代大名にあって、庄内藩酒井氏は転封の危機に晒されはしたものの、江戸幕府による転封が一度もなかった数少ない譜代大名の一つである。庄内藩は、藩史に見られるように藩主・家臣・領民の結束が極めて固い。たとえば、天保期に起きた三方領地替え(後述)では領民による転封反対運動(天保義民事件)によって幕命を撤回させている。また、幕末戊辰戦争では庄内藩全軍の半数近くにおよぶ約2000人の農民・町民が兵に志願し、戦闘で300人以上の死傷者を出しながらも最後まで勇戦したほか[1]、敗戦後に明治政府から藩主酒井忠宝へ移転の処罰が下されたさいには、家臣領民を上げて30万の献金を集め明治政府に納めることで藩主を領内に呼び戻している。これら一連の藩主擁護活動は本間光丘による藩政改革に端を発している。この藩政改革以後、領民を手厚く保護する政策が基本姿勢となり歴代藩主はこれを踏襲したため、領民たちは藩主への支持を厚くしていき、藩の危機においては士民一丸となって協力する体制が出来上がっていった。

歴代藩主では、幕府老中となった酒井忠寄と、戊辰戦争を戦った酒井忠篤が有名である。

歴史

戊辰戦争終結まで酒井氏が治めた。藩主の酒井氏は、戦国武将で徳川四天王の1人である酒井忠次の嫡流、左衛門尉酒井氏で譜代の名門の家柄である。

初期

関ヶ原の戦いの後、現在の山形県の大半を領有した最上氏がお家騒動(最上騒動)を起こしたため元和8年(1622年)に3代で改易となり、藩領が4分割された。信濃松代藩より酒井忠勝が3万8000を加増されて13万8000石で庄内に入部、庄内藩を立藩した。藩の領地は田川郡(現在の鶴岡市・庄内町三川町)、飽海郡村山郡の3郡から成っていた。庄内藩は、藩外に通じる出入口を吹浦口、念珠ヶ関口小国口(関川口)、清川口、大網口の5か所と決め、それぞれに関所を置いた(庄内五口)。

元和9年に総検地を行ったところ5万3000石を上回る増加が見込まれたため、幕府に20万石相当の御役目を望んだが叶わなかった。寛永9年(1632年)には肥後国熊本藩52万石を改易された加藤忠広の御預先(配流先)を申し出てこれを得ると、堪忍料として忠広1代に限り領内の丸岡1万石を分与した。その代価として幕府からは忠勝に弟直次の遺領である左沢藩1万2000石が与えられ、差し引き14万石の表高となる。以後、酒井氏は最上氏旧領内に立てられた4藩の中でも中心的存在となった。

しかし総検地で明らかになった5万3000石は農民にとって実質的な年貢増徴となった。特に遊佐郡ではこれによって従前5700石程だった年貢が1万石に増したことに農民が反発、同郡の百姓44軒400人前後が逃亡して由利仙北に流れるという騒ぎとなった。加えて寛永11年(1634年)には遊佐郡の大肝煎(大庄屋高橋太郎左衛門が幕府に上訴するにおよび庄内藩は動揺した。太郎左衛門は御禁制の上訴を行った罪で牢につながれたが、逃亡者が連れ戻された直後に幕府の目付から巡見使が送られて来ると情報が入ったため牢から急遽出された。江戸の情報に明るい酒田衆からの情報をもとに、太郎左衛門は弟の長四郎と共に江戸へ出て、幕閣の耳に確実に届くよう江戸目付に訴え出ている。

ちょうどそのころ、酒井家では、藩主忠勝の弟忠重(長門守)による御家乗っ取りが画策されていた。忠重は直臣旗本として出羽国村山郡白岩に8000石を知行する交代寄合だったが、白岩領に1000人を超える餓死者を出す程の苛政を敷いたため百姓一揆が起こり、これで忠重は改易となり兄忠勝のもとで御預りの身となった。面白くない忠重はやがて長男忠広を忠勝の長女と娶せた上で、忠勝の嫡子忠当を廃嫡して忠広を世子に立てさせようとしたのである。まんまと忠勝を抱き込んだ忠重は、正保3年(1645年)には忠当の後ろ盾となっていた筆頭家老の高力喜兵衛を追放、これに連なる一派も処罰して藩政から一掃させた。しかし忠当の廃嫡を目前にして忠勝が病死したため、幕府への届出通り世子忠当が庄内藩主を相続。忠当は不逞の叔父忠重に2万両を与えてこれを義絶して混乱を収拾すると共に(酒井長門守一件)、次弟の忠恒に松山2万石を、三弟忠解には大山1万石を分知して、繰り返されかねない将来の禍根を絶った。

中期

庄内平野は米どころで、且つ酒田(現在の酒田市)は北前船の寄港地として栄えたため財政的に裕福なはずであり、一説に実収入は30万石以上ともいわれた。しかし、5代・忠寄は正妻を加賀藩前田氏より迎え、老中として幕閣の一翼を担い、日光東照宮修理の割り当てと出費がかさみ赤字藩へと転落した。

7代・忠徳の代になると借金は20数万両に膨らんだ。ここに酒田の大地主・本間家当主の本間光丘に藩財政立て直しを委任した。光丘は藩士・農民などの借財の一切を肩代わりし、江戸藩邸の支出を抑えるなど出費の無駄を省き、借金の返済計画を立案・実行させた。また、飢饉に備え備荒籾(備蓄米)を蓄えた。その政策は天明の飢饉で一時挫折するが、藩政改革への道を切り開くことになり、寛政7年(1795年)には老中竹内八郎右衛門を中心にして農村改革を断行。貸付して膨らんだ藩からの米金の返済を免除し、富農には困窮与内米を課し、それを飢饉時に農民を救う資金へとあてた。手当米を与え、放棄され荒廃した公有地で耕作させるなどの諸政策は実を結び、次第に農村は再生していく。それは税収の安定をもたらし、藩財政は好転した。天保4年(1833年)に大凶作が起こるが、他国米の買い入れ、配給制の実施で他の東北諸藩に比べると餓死者は少ないものだった。それらの飢餓への対処が、後の三方領地替えの際の領民の行動に繋がったという説もある。しかし農村へ与えた影響は甚大で、再びの農政改革を必要とした。

文化2年(1805年)には忠徳が、藩校致道館を設立。祭酒司業には太宰春台の教えを受けた白井矢太夫が任じられた。

三方領知替え

天保11年(1840年)、8代・忠器の時に藩に危機が訪れる。財政が好転し、また実収が20万石ともそれ以上ともいわれる庄内に目をつけたのが武蔵川越藩主松平斉典である。当時川越松平家は度重なる転封で莫大な借財を抱え、また水害等で藩領内が荒廃して財政が逼迫していた。そこで、内実の豊かな庄内への転封を目論んだ。斉典は11代将軍家斉の第二十一子・紀五郎(のちの斉省)を養子に迎え、養子縁組のいわば引き出物として、当時、大御所となっていた家斉に庄内転封を所望した。このため、松平を川越から庄内へ、庄内の酒井を越後長岡へ、長岡藩牧野忠雅武蔵川越へという「三方領知替え」という計画が持ち上がった。

これに対し、天保12年1月20日1841年2月11日)庄内藩の領民は江戸へ出向き幕府に領知替え取り下げを直訴した。この行動は本来ならば死罪である。また従来、領民の直訴といえば藩政の非を訴えるものであるが、領民による藩主擁護の行動は前代未聞であり、逆に幕府役人より賞賛された。同年7月12日8月28日)、徳川家斉・斉省の死去も伴い幕命は撤回となった。この三方領知替えの撤回は、後に印旛沼堀割工事の際に、懲罰的な御手伝普請を庄内藩が強いられる遠因となった。

なお、藤沢周平の小説『義民が駆ける』は、この三方領知替えを農民の立場から描いた作品である。

幕末 - 戊辰戦争

1855年に幕府から北方警固を拝命し、1859年の6藩分領以降、蝦夷地(現在の北海道)にも陣屋のある浜益天塩増毛を除く)を領有した。北海道石狩市には、荘内藩(庄内藩)浜益毛陣屋跡が国指定史跡として残る。1860年に設けられ、奉行長屋や兵糧小屋のほか神社、水路(千両堀)も整備されて、藩士のほか職人、農民を含めて800人が移り住んで開拓を進めたが、戊辰戦争勃発で本領に引き揚げた[2]

元治元年(1864年)、江戸市中警護の功により17万石の格となり、慶応元年(1865年)に改めて、かねてから庄内藩の預地となっていた村山郡谷地地方などを中心に2万7,000石を加増され、領知高は16万7,071石余に達した[3]

慶応3年12月(1868年1月)、上山藩などとともに江戸薩摩藩邸への討ち入りを命ぜられ実行、戊辰戦争の口火を切るとともに、後に明治政府軍による徳川将軍家武力討伐の口実や、奥羽鎮撫総督による庄内藩攻撃の口実ともなった(戊辰戦争#東北戦争)。

1868年戊辰戦争では、1867年松平権十郎を中心とする派閥が公武合体派を攻撃し、逮捕投獄による藩論の統一を経て、会津藩とともに奥羽越列藩同盟の中心勢力の一つとなった。但し、奥羽越列藩同盟は会津、庄内の謝罪嘆願を目的としたものであったため、正確には両藩は加盟していない(会津藩と庄内藩で会庄同盟が締結された)。戊辰戦争では、明治政府に与した新庄藩久保田藩領内へ侵攻。当時日本一の大地主と言われ庄内藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入。清川口では攻め入る明治政府軍を撃退。その後に新庄を落とし、内陸、沿岸から秋田藩へ攻め入った庄内軍は中老酒井玄蕃率いる二番大隊を中心に連戦連勝、明治政府軍を圧倒した。内陸では横手城を陥落させた後さらに北進、久保田城へ迫ったが、新政府側が秋田戦線へアームストロング砲やスペンサー銃等の最新兵器で武装した佐賀藩(正確には佐賀藩内の武雄鍋島家)の兵力を援軍として投入したため、戦線は旧藩境付近まで押し戻されて膠着状態となった。

列藩同盟盟主の一角である米沢藩が降伏したため、藩首脳部は撤兵を決断、さらに会津藩も降伏し、庄内藩以外の全ての藩が恭順した。明治元年9月26日1868年11月10日)、庄内藩も恭順したが、最後まで自領に新政府軍の侵入を許さなかった。なお、戊辰戦争の直前および交戦中には会津藩とともに、当時のプロイセン王国に対して駐日代理公使マックス・フォン・ブラントを通じて蝦夷地(北海道)に持つ所領の割譲を提案し、その見返りとして兵器・資金援助や軍事介入を得ようとしていたことが分かっている[4][5]

明治元年12月に公地没収。11代・忠篤は謹慎処分となったが、弟・忠宝が12万石に減封の上、陸奥会津藩へ、翌明治2年1869年)6月には磐城平藩へと転封を繰り返した。本間家を中心に藩上士・商人・地主などが明治政府に30万両(当初は70万両の予定だったが揃わず減額が認められた)を献金し、明治3年1870年)酒井氏は庄内藩へ復帰した。共に列藩同盟の盟主であった会津藩が解体と流刑となったのとは逆に、庄内藩は比較的軽い処分で済んだ。これには明治政府軍でも薩摩藩西郷隆盛の意向があったと言われ、この後に庄内地方では西郷隆盛が敬愛された。明治3年11月には、旧庄内藩主酒井忠篤が旧藩士78名と共に鹿児島に入り、また後年にも旧家老菅実秀等が鹿児島を訪問し、西郷隆盛(西郷南洲翁)に親しく接する機会を得た。この経験を踏まえ、南洲翁の遺訓をまとめた『西郷南洲翁遺訓』が旧庄内藩士により、明治初期にまとめられた。現在でも、南洲翁の遺徳を伝えようと、財団法人荘内南洲会により南洲神社が運営されている。 

明治2年9月29日、藩名は大泉藩と改称された。同年、胆振国虻田郡を領有している。明治4年1871年廃藩置県により大泉県となる。後、酒田県鶴岡県への改名を経て、1876年8月21日山形県に編入された。酒井氏は明治17年(1884年)に伯爵となり華族に列している。

当藩出身の著名な人物として、領内清川村出身の志士清河八郎がいる。

歴代藩主

左衛門尉酒井家の家紋「丸に片喰」[6]
  1. 忠勝[7]
  2. 忠当[7]
  3. 忠義[8]
  4. 忠真[9]
  5. 忠寄[10]
  6. 忠温[11]
  7. 忠徳[12]
  8. 忠器[13]
  9. 忠発[13]
  10. 忠寛[14]
  11. 忠篤[15]
  12. 忠宝[16]

酒井伯爵家(1886 - 1947)

  1. 忠純
  2. 忠惇
  3. 忠良

庄内酒井家(1947 - )

  1. 忠明(1947 - 2004)
  2. 忠久(2004- )
  3. 忠順
  • 現当主の18代・酒井忠久は、致道博物館の理事・館長などを務める。2016年8月、日本美術刀剣保存協会会長に就任[17]
  • 忠久の長男・忠順は、獨協大学大学院で経済学を修め、庄内地方の物産を扱う会社を経営する。

注釈

  1. ^ 横山他 (1998)、p.140 では酒井忠解への大山領の分知を慶安2年(1649年)としている。

出典

  1. ^ 大山柏『戊辰役戦史』に「(不甲斐ない官軍に比べて)庄内兵は良く戦った。兵力の大部分が訓練の未熟な町農兵で装備も不十分なのに優勢な官軍に対して国境線を守り通した」とある。
  2. ^ 【わがマチ イチ押し・遊】荘内藩ハママシケ陣屋跡(石狩市)埋もれた史跡を復元『読売新聞』朝刊2020年12月25日(北海道版)
  3. ^ 渋谷光敏『庄内沿革誌』1894年.
  4. ^ 2011年2月7日『朝日新聞』朝刊10面
  5. ^ 「戊辰戦争中の会津、庄内両藩 蝦夷地所領 プロイセンに提示 資金か軍隊派遣と引き換えに」『読売新聞』朝刊2017年5月17日文化面
  6. ^ 『藩史大事典 第1巻』 (1988)、p.412
  7. ^ a b 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.191
  8. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.191-192.
  9. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.192
  10. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.192-193.
  11. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.193
  12. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.193-194.
  13. ^ a b 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.194
  14. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.194-195.
  15. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.195
  16. ^ レファレンス協同データベース:レファレンス事例詳細 2012年8月29日閲覧。
  17. ^ “根ほり葉ほり 日本文化広く発信したい”. 朝日新聞デジタル. (2016年9月5日). http://www.asahi.com/area/yamagata/articles/MTW20160905060240001.html 2016年12月15日閲覧。 
  18. ^ 斎藤 (1995)、p.24
  19. ^ 斎藤 (1995)、p.172
  20. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.208-209.
  21. ^ a b 『藩史大事典 第1巻』 (1988)、p.431
  22. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.209
  23. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.209-210.
  24. ^ a b 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.210
  25. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.210-211.
  26. ^ a b 斎藤 (1995)、p.274
  27. ^ a b 横山他 (1998)、p.140
  28. ^ a b 斎藤 (1995)、p.52
  29. ^ 『藩史大事典 第1巻』 (1988)、p.429
  30. ^ 『庄内の歩み2』財団法人致道博物館公式HP 2012年8月21日閲覧。
  31. ^ a b c 『山形県史:近世編上』 (1985)、p.221
  32. ^ 本間 (2007)、pp.221-223.
  33. ^ 斎藤 (1995)、pp.12-13
  34. ^ a b c 金山 (2012)、p.40
  35. ^ 金山 (2012)、p.42
  36. ^ a b c d e f 金山 (2012)、p.45
  37. ^ 斎藤 (1995)、pp.37-38.
  38. ^ 『藩史大事典 第1巻』 (1988)、p.430
  39. ^ 宮武外骨『府藩県制史』1941年および日本史籍協会編『藩制一覧』1929年。
  40. ^ 『藤沢周平作品ゆかりの地案内板』 山形県鶴岡市観光連盟 2012年8月23日閲覧。
  41. ^ a b 『藤沢周平氏ゆかりの地』山形県東京事務所首都圏情報 2012年8月23日閲覧。


「庄内藩」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「庄内藩」の関連用語

庄内藩のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



庄内藩のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの庄内藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2021 GRAS Group, Inc.RSS