庄内藩 重臣

庄内藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 14:10 UTC 版)

重臣

酒井奥之助家、酒井吉之允家および松平甚三郎家はいずれも藩主の一門で、両敬家と称されて特別な待遇を受け[18]、藩政の中期までは藩主の相談役となり役職には就かなかった[19]

  • 酒井奥之助家
    酒井忠直直隆-直通=直豫直恭直豊直寛直方
  • 酒井吉之允家
    酒井了次-忠崇-重盈-重栄=重喬重頼了知-了安-了繁了明了恒-了敏=調良
  • 松平甚三郎家 ※福釜松平家
    松平久恒(酒井忠次の4男、福釜松平家・松平親俊の養子。)-久昌-久勝=久親=廣親=親治=久敬=久武=久敬(再襲)=久寛-久重-久大-久厚
  • 松平武右衛門家
    松平久豊=久寛=久映-久長=久中-武平-久茂=久義=久彰=久継
  • 松平舎人家
    松平輝親=城親=信親=惟親-知親-敬親
  • 松平権右衛門家 ※長沢松平家
  • 石原平右衛門家
    石原道秀-西善(河内)-重秋-重則=重貞(重則嫡孫)-重寿=允政(重寿弟)-重時-重光-重美
  • 竹内八郎右衛門家
  • 水野内蔵助家
    水野重次-重久-重治-重誠-重孝=重幸-重栄-重明-重民-重剛
  • 加藤衛夫家

支藩

出羽松山藩

松山藩(まつやまはん)は、庄内藩領より分与された新田を領有した藩。出羽国飽海郡松山(山形県酒田市)に居所を構え、廃藩置県まで存在した。石高は2万5,000石(立藩時は2万石)。明治2年(1869年)には松嶺藩(まつみねはん)と改称した。

庄内藩初代藩主・酒井忠勝の三男・忠恒が、正保4年(1647年)庄内藩領のうち新田など2万石を分与されたことに始まる。3代・忠休奏者番を経て若年寄に累進した。このため5,000石を加増され、さらに城を構えることを許され、以後、藩庁は松山城となった。しかしながら、幕閣に参与したために経費がかさみ藩財政は悪化した。これに対し家臣は隠居を要求したが認められなかった。

幕末には本藩である庄内藩に従い奥羽越列藩同盟に与し明治政府軍に降伏。時の藩主・忠良は藩領のうち2,500石を減封され、隠居を命じられた。

明治4年(1871年)、廃藩置県により松嶺県となり、酒田県・鶴岡県を経て山形県に編入された。藩主家は明治17年(1884年)に子爵となり華族に列している。

歴代藩主

  • 酒井家
  1. 忠恒[20]
  2. 忠豫[21]
  3. 忠休[21]
  4. 忠崇[22]
  5. 忠禮[23]
  6. 忠方[24]
  7. 忠良[24]
  8. 忠匡[25]

大山藩

大山藩(おおやまはん)は江戸時代前期の正保4年(1647年)から寛文8年(1668年)まで存在した藩であった[26]

庄内藩初代藩主・酒井忠勝の死去に際し、2代藩主・忠当への遺言に基づき、忠勝の七男・忠解が、正保4年(1647年)庄内藩領のうち田川郡内の大山(鶴岡市)で新田1万石を分与され、陣屋を構え立藩した[27][28][* 1]

寛文8年(1668年)嗣子がなく、藩主死去に伴い収公され幕府領となった[26]

余目領

初代藩主酒井忠勝の次男・忠俊の長男・忠高に天和2年(1682年)余目で5,000石の分知が行なわれ[28]、旗本となった[27]。この後、養子忠雄、養子忠盈と受け継がれたものの、忠盈死去に際し嗣子無く元禄9年(1696年)に収公され幕府領となった[30]

分知の際の分人は不明だが、忠雄の元禄2年では家中7人、徒8人であった[31]。領主は定府で、領地には年貢徴収にあたった役人1人と手代2人が置かれた[31]。また駿府在番などの幕府軍役負担の際には、本藩庄内藩からの支援を受けていた[31]

余目領は松山藩が築城を行なう際に、松山藩左沢領と一時交換の形で松山藩領となった時代があるが、幕府代官支配、庄内藩預地を繰り返していた[32]

左沢藩

左沢藩(あてらざわはん)は江戸時代初期に出羽国村山郡左沢(山形県西村山郡大江町)付近を領有した藩で、庄内藩の支藩ではないが庄内藩主酒井忠勝の弟・直次が封じられた[33]ことからここに記す。

元和8年(1622年)、山形の最上氏の改易によって、庄内藩成立と同時に酒井忠勝の弟・直次が村山郡左沢で1万2,000石を与えられ成立した[34]寛永元年(1624年)に、成立当初に錯綜していた幕府領と左沢藩領が整理され73箇村に確定した[34]。藩主直次は当初居城を左沢楯山城としたが、後に小漆川に築城を始め、城下町の造営に着手した[35]。左沢藩は藩主直次が寛永8年(1631年)3月10日に嗣子なく没したため収公され幕府領となった[34]。この左沢領は収公後に庄内藩の預地となり[36]、寛永9年(1632年)に加藤忠広の改易庄内藩預かり処分に伴い庄内藩丸岡領1万石と交換の形で庄内藩領となった[37]。さらに慶安元年(1648年)には出羽松山藩の分知成立により、同藩領となった[36]

直次は青苧(あおそ)畑の検地を行なっていて、青苧畑については最上氏の時代から既に領内の上・下五百川の村々に青苧畑に浮役として課税が行なわれていた[36]。これが検地により左沢藩全体に本来の一般の畑としての課税に加え、青苧役が二重に課税されることとなった[36]。両五百川領ではさらに従来の浮役がそのままとなっていて三重の課税となった[36]。浮役は金納から米納となって浮役代米として納められていて、青苧役も当初は現物納であったものが、庄内藩領となった寛永9年までには米納となり青苧代米として納められた[36]

谷地地方 (谷地藩)

谷地藩 (やちはん)とは、明治時代初期に修史局によって編纂された「藩制一覧表」に名前があるだけの藩で、明治政府が作成した一般的な藩名録から存在が漏れている。『藩制一覧表』でも、石高は分知のため不詳、士族52戸150人(男83人、女67人)との記述があるだけである。宮武外骨は、幕末に加増された谷地地方に庄内藩が分藩か分置いて「谷地藩」と称して明治政府に申請したが、結局認められなかったのだろうと推測している[39]

幕末の領地

大泉藩

上記のほか、明治維新後に胆振国虻田郡が所領に加わった。

松嶺藩

  • 出羽国(羽前国)
    • 村山郡のうち - 63村
    • 田川郡のうち - 10村
  • 出羽国(羽後国)
    • 飽海郡のうち - 41村
  • 上野国

注釈

  1. ^ 横山他 (1998)、p.140 では酒井忠解への大山領の分知を慶安2年(1649年)としている。

出典

  1. ^ 大山柏『戊辰役戦史』に「(不甲斐ない官軍に比べて)庄内兵は良く戦った。兵力の大部分が訓練の未熟な町農兵で装備も不十分なのに優勢な官軍に対して国境線を守り通した」とある。
  2. ^ 【わがマチ イチ押し・遊】荘内藩ハママシケ陣屋跡(石狩市)埋もれた史跡を復元『読売新聞』朝刊2020年12月25日(北海道版)
  3. ^ 渋谷光敏『庄内沿革誌』1894年.
  4. ^ 2011年2月7日『朝日新聞』朝刊10面
  5. ^ 「戊辰戦争中の会津、庄内両藩 蝦夷地所領 プロイセンに提示 資金か軍隊派遣と引き換えに」『読売新聞』朝刊2017年5月17日文化面
  6. ^ 『藩史大事典 第1巻』 (1988)、p.412
  7. ^ a b 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.191
  8. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.191-192.
  9. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.192
  10. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.192-193.
  11. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.193
  12. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.193-194.
  13. ^ a b 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.194
  14. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.194-195.
  15. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.195
  16. ^ レファレンス協同データベース:レファレンス事例詳細 2012年8月29日閲覧。
  17. ^ “根ほり葉ほり 日本文化広く発信したい”. 朝日新聞デジタル. (2016年9月5日). http://www.asahi.com/area/yamagata/articles/MTW20160905060240001.html 2016年12月15日閲覧。 
  18. ^ 斎藤 (1995)、p.24
  19. ^ 斎藤 (1995)、p.172
  20. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.208-209.
  21. ^ a b 『藩史大事典 第1巻』 (1988)、p.431
  22. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.209
  23. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.209-210.
  24. ^ a b 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.210
  25. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.210-211.
  26. ^ a b 斎藤 (1995)、p.274
  27. ^ a b 横山他 (1998)、p.140
  28. ^ a b 斎藤 (1995)、p.52
  29. ^ 『藩史大事典 第1巻』 (1988)、p.429
  30. ^ 『庄内の歩み2』財団法人致道博物館公式HP 2012年8月21日閲覧。
  31. ^ a b c 『山形県史:近世編上』 (1985)、p.221
  32. ^ 本間 (2007)、pp.221-223.
  33. ^ 斎藤 (1995)、pp.12-13
  34. ^ a b c 金山 (2012)、p.40
  35. ^ 金山 (2012)、p.42
  36. ^ a b c d e f 金山 (2012)、p.45
  37. ^ 斎藤 (1995)、pp.37-38.
  38. ^ 『藩史大事典 第1巻』 (1988)、p.430
  39. ^ 宮武外骨『府藩県制史』1941年および日本史籍協会編『藩制一覧』1929年。
  40. ^ 『藤沢周平作品ゆかりの地案内板』 山形県鶴岡市観光連盟 2012年8月23日閲覧。
  41. ^ a b 『藤沢周平氏ゆかりの地』山形県東京事務所首都圏情報 2012年8月23日閲覧。






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