チェスキー・クルムロフ チェスキー・クルムロフの概要

チェスキー・クルムロフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/30 09:07 UTC 版)

チェスキー・クルムロフ
位置

チェスキー・クルムロフの位置
位置
チェスキー・クルムロフ (南ボヘミア州)
チェスキー・クルムロフ (チェコ共和国)
チェスキー・クルムロフ (ヨーロッパ)
座標 : 北緯48度48分39.27秒 東経14度18分54.75秒 / 北緯48.8109083度 東経14.3152083度 / 48.8109083; 14.3152083
町長 Luboš Jedlička
地理
面積  
  域 22.16 km2
人口
人口 (2007年現在)
  域 14,056人
    人口密度   634人/km2
公式ウェブサイト : www.ckrumlov.info

  1. ^ チェスキー・クルムロフの歴史が紹介される際には、現在、この町が属するチェコ共和国の立場が反映されるのが通常である。そのため、この町の歴史的景観が形成されたほとんどの期間において、町が「クルマウ」と呼ばれていたことや、当時の多数派であったドイツ系住民が一斉に故郷を追われたため、町の人口構成が相当変化していることについては、言及しないことが通常となっている。また、この町が1945年以降「荒廃の危機」に直面したことについても、もっぱらナチス・ドイツ共産主義が責任を負うべきこととされ、ドイツ系住民の追放が影響が語られることはまずない(たとえば、NHKの世界遺産関連の番組のサイトは、クルムロフ城が荒廃した原因として「ナチスによる町の占領」と「共産党支配のもとでの伝統文化の否定」を挙げ[1]、ドイツ系住民の存在と追放については特に指摘することなく「ドイツの占領と第二次世界大戦の終結を経て、一時期無人となった」[2]と解説している。)現実には、ドイツ系住民を追放し、旧来のコミュニティーの大半を失ったことは、町の荒廃に決定的な影響を及ぼした。さらに、オーストリアの画家エゴン・シーレが、すでに20世紀初頭の段階において、この町を「死の街」と形容していたことも無視できない。すなわち、産業革命の波に取り残され、城主からも見放されていたこの町は、民族主義、ナチズム、共産主義の到来のはるか以前から、打ち捨てられる運命にあったのである(それゆえ歴史的景観がそのまま残るのであるが)。いずれにせよ、町の歴史におけるドイツ的要素に言及せず、受難の歴史をナチズムと共産主義に帰責する説明は、史実のすべてを語っていない点で正確でない。
  2. ^ 『地球の歩き方 2017〜18 チェコ/ポーランド/スロヴァキア』ダイヤモンド・ビッグ社、2017年、162頁。ISBN 978-4-478-06043-8 
  3. ^ ルドルフ2世は、町に自らの婚外子であるユリウスを住まわせた。なお、ユリウスには精神障害があったといわれている。詳細につき[3]を参照。
  4. ^ 帝国が崩壊すると、1918年10月、プラハではチェコスロバキアが独立を宣言する一方、ウィーンでは、オーストリア共和国(当初の名称はドイツ・オーストリア共和国)建国のための会合が開かれた。チェコスロバキアはボヘミア全土を当然に自国の国土と考える一方で、ウィーンの計画によれば、クルマウはオーバーエスターライヒ州に含まれるはずであった。クルマウのドイツ系住民は、オーストリアへの帰属を宣言するが、翌月にはチェコスロバキア軍が町を占領するに至った。その後、1919年9月のサン=ジェルマン条約により、クルマウを含むボヘミアのドイツ語圏地域がチェコスロバキア領となることが確定した。
  5. ^ 同時期に、町の通りの名称の多くがドイツ語名からチェコ語名に改称された。通りの名称の変更の詳細につき[4]を参照。
  6. ^ いわゆる「ズデーテン地方」は、ズデーテン山地の周辺の地方にとどまらず、ドイツ系住民の多いボヘミアの山岳地帯を指す言葉として用いられてきたが、チェスキー・クルムロフは、広義の意味に用いられる場合においても、それに含まれないとされてきた。しかし、1938年のズデーテン地方の併合の際に、アドルフ・ヒトラーは、ブルノ(ブリュン)など、言語島を構成している地域を除き、チェコスロバキアのドイツ語圏のほぼすべてをドイツへ併合した。
  7. ^ チェスキー・クルムロフ以外に、大規模なドイツ系住民の追放が行われた都市としては、カルロヴィ・ヴァリブルノなどがある。チェコスロバキア政府が300万人を超える領内のドイツ系住民を追放することを決定した理由として、彼らの多くがドイツ併合を支持したこと、その存在が再びチェコスロバキアの安全保障上の脅威になりかねないこと、ポツダム協定が東ヨーロッパ地域のドイツ系住民の移送(ドイツ人追放)を容認したこと、などが挙げられる。もっとも、ベネシュは戦時中の在ロンドン亡命政権の時代から、戦後のドイツ系住民の追放を計画していた。ドイツ系住民追放の国内法的根拠となった1945年のベネシュ布告は、現在も法的に有効であるとされ、チェコ政府はこれを見直すことを拒絶しているが、チェコにおいても、ベネシュに対する評価は必ずしも肯定的なものではない。2004年3月25日、チェコ上院は、ベネシュ元大統領を顕彰する法案を圧倒的多数で否決している。
  8. ^ ドイツへの移送に先立ち、チェスキー・クルムロフを含むチェコスロバキア全土で、ドイツ系住民に対する暴力、即時退去命令、強制収容等の非人道的な措置がとられたとの証言がある。チェスキー・クルムロフにおける、暴力、強制収容等の証言につき、詳しくは [5]を参照。なお、ベネシュはドイツ系住民の追放に伴う暴力につき、これを罪に問わないとする大統領令を発している。もっとも、チェコ人によるドイツ人一般(チェコスロバキアのドイツ系住民を含む)に対する暴力的な対応の背景には、第二次世界大戦中のナチス・ドイツの支配が過酷を極めたことがある(リディツェレジャーキにおける虐殺など)。また、住民の強制追放、被差別民族の強制収容などは、第二次世界大戦中のナチス・ドイツによる被支配地域では日常的な光景であったことも影響した。この点につき、1990年、ハヴェル大統領は、演説において、6年間に及ぶナチスの支配により、私たちも「病原菌」に感染した、と表現している。
  9. ^ http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6409699.stm
  10. ^ http://www.ceskenoviny.cz/news/zpravy/czech-romany-woman-allegedly-sterilised-against-her-will-in-2007/388914
  11. ^ チェコスロバキア政府は、ドイツ系住民を250万人以上追放したことにより、ボヘミアの旧ドイツ語圏地域の人口が希薄化していたことに対し、地政学的観点から人口の回復を図ろうとしていた。その一環として、この地域にロマの定住を奨励する政策が採られ、チェスキー・クロムロフにもロマの人々が多数定住した(1947年時点で約150人、1990年時点で約1300人)。多くの場合、移住者には、無人となっていた旧ドイツ系住民の住居が提供された。なお、もともとボヘミアには多数のロマが生活していたが、その大半がナチス・ドイツの民族政策の犠牲となり、戦後、ボヘミアに定住したロマは、主にスロバキア東部方面からの移住者である。1958年には、チェコスロバキア全土のロマの人々を対象に、馬車による移動生活を禁止する法律が制定され、以後、定住の強制が行われた。1945年以降のチェスキー・クルムロフへのロマの定住と現状については [6]を参照。
  12. ^ その他にスウェーデンドロットニングホルム宮殿グリプスホルム城にある。
  13. ^ シーレの絵画には「クルマウの風景(Krumauer Landschaft)」などクルムロフの情景を描いたものが多数あるが、本美術館は、シーレがクルムロフの景観を描いた絵画は所蔵していない。
  14. ^ 1968年に第1回の祭典を開催、その後中断を経て、1990年より毎年開催されている


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