トームペア城とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > トームペア城の意味・解説 

トームペア‐じょう〔‐ジヤウ〕【トームペア城】

読み方:とーむぺあじょう

Toompea Lossエストニア首都タリン旧市街西部トームペアの丘の上にある城。11世紀以前エストニア人建てた木造の砦があったが、13世紀前半リボニア帯剣騎士団進出して要塞建造以降増改築繰り返され18世紀後半には宮殿のような外観になった。現在は国会議事堂として使われている。

トームペア城の画像
撮影andrew hyde http://goo.gl/vEvYv
トームペア城の画像 トームペア城の画像
「のっぽのヘルマン」と呼ばれる南西角の塔(15世紀建造
トームペア城の画像
要塞面影を残す西側外観撮影:E.Kanash/CC BY-SA 3.0 EEhttp://bit.ly/346hlMS
トームペア城の画像
全景撮影:Hannu/PDhttp://bit.ly/2E3BCb6

トームペア城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/27 00:22 UTC 版)

トームペア城
地図

トームペア城Toompea loss)は、エストニアタリン歴史地区西部トームペアの丘の上にある城。現在はエストニア議会(リーギコグ)の議事堂として使われている[1]

歴史

11世紀までにエストニア人は木造の城を建設した。1227年にリヴォニア帯剣騎士団、続いてドイツ騎士団が占領して本格的な要塞建設を行った。1561年にスウェーデン領となりエストニア全域を管轄する拠点に選ばれたことはタリンが首都として発展する契機となった。1710年、大北方戦争の過程でロシア帝国の支配下に入り、総督の住居となるバロック建築の宮殿が東側に増築された。1918年にエストニアがロシアから独立して後は議事堂として使用されている。議場部分は修道院を取り壊して1922年に建設されたもので、外観は古典主義建築だが、内装は表現主義 (建築)である。ソ連8月クーデターが失敗に終わるや同月22日にはトームペア城のレーニン像が台座から撤去されている[2]

南側の高さ約50メートルの塔は、のっぽのヘルマンと呼ばれ、毎朝国旗が掲揚される[3][4]

脚注

  1. ^ Toompea Castle”. Riigikogu (Parliament of Estonia). 2022年10月13日閲覧。
  2. ^ “バルト3国の独立に拍車”. ニューズウィーク日本版(1991年9月5日号). TBSブリタニカ. (1991-9-5). p. 19. 
  3. ^ 『地球の歩き方 2017〜18 バルトの国々』ダイヤモンド・ビッグ社、2017年、54頁。ISBN 978-4-478-06042-1 
  4. ^ タリン”. DTACエストニア観光情報局. 2018年4月13日閲覧。

関連項目

座標: 北緯59度26分08秒 東経24度44分14秒 / 北緯59.4356度 東経24.7372度 / 59.4356; 24.7372



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「トームペア城」の関連用語

トームペア城のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



トームペア城のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのトームペア城 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS