きょうと‐しょしだい〔キヤウト‐〕【京都所司代】
京都所司代
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京都所司代(きょうとしょしだい)は、近世の日本において京都に設置された行政機関である。
注釈
- ^ 『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』は武家の京都巡見にあたり提出された書物である[3]。方広寺は江戸時代に武家の京都巡見地の一つになっていたが、巡見に際しては事前に妙法院に方広寺の由緒を記した書物を提出するよう求められた[3]。そこに記された内容は妙法院の公式見解とされている。『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』は稲垣重富の巡見に際して提出された書物とされ、大仏再建の経緯などが綴られている[3]。妙法院日次記の元禄16年5月27日条に、巡見にあたり提出した書物控があり、その中の「釈迦心柱ノ書付」が『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』と題されている[3]。上記は『妙法院日次記』2巻に収録されている[3]。
出典
- 1 京都所司代とは
- 2 京都所司代の概要
- 3 参考文献
京都所司代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 09:19 UTC 版)
足利義昭を追放した信長が京都を完全支配下に置いた後、天正元年(1573年)7月、信長より京都所司代(天下所司代)に任ぜられる。松井友閑・武井夕庵・明智光秀・塙直政らの信長の行政官僚側近らと共に、京都の治安維持や朝廷・貴族・各寺社との交渉、御所の修復、使者の接待、信長の京都馬揃えの準備など、およそ信長支配体制下における、京都に関する行政の全てを任されている。 天正3年(1575年)4月、信長は困窮した公家を救うため、公家の旧領を返還させる徳政令を発する。貞勝は丹羽長秀とともに、土地や文書の調査や係争を担当した。7月、信長に官位昇進の勅諚が出されるが、信長はこれを固辞、代わりに家臣団への叙任を願い出て勅許された。7月23日、貞勝は朝廷との繋がりも考慮されて正六位下・長門守に叙任される。10月19日には伊達輝宗の使者を接待した。 天正4年(1576年)4月、信長は足利義昭が使っていた二条城とは別に、二条晴良の屋敷に新邸を築くことを決め、貞勝に普請を命じた。のちにこの新邸は、「二条御新造」「二条新御所」と呼ばれた。 天正5年(1578年)3月上旬、御所の修理が終わったため、貞勝は京都の町人に御所の築地塀の修復に協力するよう命じ、人数をいくつかの班に分けて作業を競わせた。築地塀の上では町人たちの歌や踊りが披露され、見物客が殺到し、周辺は大変な賑わいを見せた。あまりの賑わいに正親町天皇や貴族らも見物した。その賑わいの中で競い合わせて進めた修復工事は、瞬く間に完成したという。 天正8年(1580年)2月26日、信長は京都での居住場所を本能寺に移すことに決め、貞勝に普請を命じた。 天正9年(1581年)、出家して村井春長軒と号し、家督を子の貞成に譲っている。
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京都所司代
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元治元年(1864年)4月、京都所司代に任命される。京都所司代は通常雁間詰か帝鑑間詰の譜代大名が就任する職であるが、定敬はより上位の溜間詰であった。また、京都所司代の就任者は、その前に大阪城代や寺社奉行・奏者番を経験するのが通例であるが、定敬はいずれも未就任であり、極めて異例な人事であった。 この人事と同時に、長州征伐のため軍事総裁に転じていた実兄・松平容保(会津藩主)の京都守護職への復帰も発令され、兄弟2人で京都守護を担う体制が形成されたことになる。 直前の3月には徳川慶喜が朝廷から新設の禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任命されており、雄藩勢力との対抗を通じて連携を深めた定敬・容保・慶喜の3者は、幕府から半ば独立して朝廷を援護する勢力を形成し、大政奉還に至るまでの中央政局を主導する(一会桑政権)。同年の禁門の変では会津藩と共に長州藩兵を撃退し、水戸天狗党の乱でも出兵している。髪を総髪にし、洋装で馬に乗り都大路を闊歩した。 慶応3年(1867年)4月には、営中に限り老中同様の業務を執り行うよう命ぜられ、事実上の在京閣老としての役割も担うこととなった。
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