TEFのアフリカ理事として:1972-1975
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「デズモンド・ムピロ・ツツ」の記事における「TEFのアフリカ理事として:1972-1975」の解説
黒人神学は黒人の人生における経験を理解することを求めている。黒人の経験の大半を占めるのは、尽きることがない白人のレイシズムの魔手による苦しみである。黒人神学はこの事実を、神が自身について、人間について、世界について、極めて明快な言葉で語った事に照らして理解することを求めている ... 黒人神学は黒人であると同時にキリスト教徒であり続けることが可能かどうかという問題と切り離せない。それは神がどちらの側にいるかを問うことだ。そして人類が人間となれるかどうかを気にかけることだ。何故なら、我々の人間性を奪う人々はその過程で彼ら自身の人間性をも失うからである。[黒人神学が主張するのは、]黒人の解放は白人の解放の別の側面だということである。ゆえに黒人神学は人間(Human)の解放に関わることなのだ。 デズモンド・ツツ、1973年、連邦神学校で発表された会議資料。 神学教育基金(TEF)はツツにアフリカ担当の理事になることを要請した。この地位に就くにはロンドンへの移住が必要であった。ツツはこれに同意したが、当初南アフリカの当局は出国許可を出すことを拒否した。当局はフォート・ヘアの学生の抗議活動以来、彼に不審を抱いており、またTEFを運営していたWCCが、アパルトヘイトを非キリスト教的であるとして非難したため、これに対してもますます敵意を向けていた。ツツがこの地位に就くことが南アフリカにとって良い宣伝になると主張した後、南アフリカ当局は対応を和らげた。1972年3月、彼はイギリスに戻った。TEFの本部はロンドン南東部にある町、ブロムリーにあり、ツツと家族は近隣のルイシャム(英語版)に住んだ。ここでツツは聖アウグスティヌス教会の名誉牧師補(curate)となった。 ツツの新たな仕事は、当然のこととして神学訓練機関と生徒の助成金を査定することが必要であった。このために、1970年代初頭、彼はアフリカの各地を周遊しなければならなかった。ザイール(現:コンゴ民主共和国)で、彼は広範な腐敗と貧困に嘆き、モブツ・セセ・セコに「軍事政権は...極めて腐敗し南アフリカよりも酷い。」と文句をつけた。ナイジェリアでは、彼は初めて現実の生活の中でキリスト教徒とイスラーム教徒が交流している様子を目撃し、またビアフラ共和国が崩壊したことへのイボ族の恨みに懸念を表明した。1972年、彼は東アフリカ周辺を旅した。そこで彼はジョモ・ケニヤッタのケニア政府から強い感銘を受け、イディ・アミンのウガンダにおけるアジア人の追放を目の当たりにした。イングランドに戻り、彼は見知らぬ人にウガンダからの南アジア系難民と勘違いされ「クソ野郎が、ウガンダに帰れ。(You bastard, get back to Uganda)」という言葉を浴びせられた。これはツツがイギリスでレイシストに遭遇したわずかな経験の1つであった。ツツはまた、自身も潜在的に反黒人の人種差別的思考を持っていることを認識した。ナイジェリアの飛行機に乗った時、操縦士と副操縦士が2人とも黒人であることを知った後、彼は「不安がおさまらない(nagging worry)」のを感じた。白人だけにそのような地位と責任を委ねることができると考えていたのである。 1970年代の初頭の間、ツツの神学は根本的に変化した。この変化はアフリカでの経験と、TEFのラテンアメリカ支部副支部長アハロン・サプセジアン(Aharon Sapsezian)の紹介を通じて解放の神学の運動を発見したことの双方によってもたらされた。黒人神学を発見すると、彼はすぐそれに惹きつけられ、1973年にはニューヨーク市のユニオン神学校でその主題についての会議に出席した。この会議に提供した論文において彼は「黒人神学は行動的な神学であり、超然とした学究的な神学ではない。それは現実の問題、黒人が生きるか死ぬかという問題に関する、体感のレベルの神学である。」と説明している。彼は、この論文は黒人神学の学術的な正当性を示そうという試みではなく、むしろ「単純明快な、恐らくは耳触りの悪い、その存在についての声明である。黒人神学は存在する。その存在には誰の許可も必要としない...率直に言って、我々が我々の行動を行うにあたって白人の許可を待つという時はすでに過ぎ去ったのだ。我々の活動が白人から見て知的な作法に適っているかどうかは何ら重要ではない。我々は意に介することなく前に進む。」と説明している。 ツツはアフリカ系アメリカ人が派生させた黒人神学と、アフリカ神学(英語版)の融合を追い求めた。このアプローチは、黒人神学をアフリカの状況と関係のない外国からの輸入品とみなしたジョン・ンビティ(英語版)のような他のアフリカの神学者たちとは対照的である。
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