ヨハネス1世 (ローマ教皇)
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ヨハネス1世 | |
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第53代 ローマ教皇 | |
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教皇就任 | 523年8月13日 |
教皇離任 | 526年5月18日 |
先代 | ホルミスダス |
次代 | フェリクス4世 |
個人情報 | |
出生 | 470年頃![]() |
死去 | 526年5月18日 東ゴート王国、ラヴェンナ |
その他のヨハネス |
ヨハネス1世(Ioannes I、470年頃? - 526年5月18日)は、ローマ教皇(在位:523年 - 526年)。カトリック教会および正教会で聖人とされる。
選任の背景
西ローマ帝国滅亡後、その地の支配者は東ゴート族のテオドリックとなる。彼はアリウス派に属していたが、東ローマ帝国のユスティヌス1世がアリウス派の弾圧を始めると、両派の和解のため助祭ヨハネスを教皇位につけて使節団と共に東ローマ帝国に派遣した。
死去
ヨハネス1世は初めて東ローマ帝国を訪れた教皇となり、東ローマ側から歓待を受ける。だが、ユスティヌス1世は妥協を示さず、使節団は成果を何一つ手にすることなく帰国した。テオドリックはその結果に激怒し、ヨハネス1世を捕らえて牢へ投じた。ヨハネス1世は即位時点でかなりの老齢であり、長旅と老衰からテオドリックの処分を受ける前に獄死する。教皇の死についてはいくつかの伝聞が残され、時代が下った14世紀に作られたラヴェンナのサンタ・マリア・イン・ポルト・フォーリ教会のフレスコ画では、テオドリックが教皇を死に追い込んだ様子が描かれ、さらに下った15世紀には直接の「処刑」の様子を描いた細密画が描かれている。
参考文献
- P.G.マックスウェル・スチュアート著、高橋正男監修『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年12月。ISBN 4-422-21513-2
「Pope John I」の例文・使い方・用例・文例
- 生兵法は大けがのもと 《少しばかりの学問は危いものだ; A. Pope の詩から》.
- Pope は用語が綺麗だ
- John AbrahamsとTina Linがアンケートデータの収集担当で、この作業は5 月5 日までに終わるでしょう。
- 今日は、皆さんをJohn Driscoll展にご案内する予定で、この展覧会は当美術館の30周年を記念して行われているものです。
- John Smith という名の英国人だ
- そんな英語を使うと Johnson が泣く
- 限定属格の例として、『John's mother(ジョンの母親)』における『John's(ジョンの)』がある
- 『John and Mary(ジョンとメアリー)』または『John walked and Mary rode(ジョンは歩き、そして、メアリーは乗り物に乗った)』における『and』、等位接続詞である;そして、『will you go or stay?(行くか、いてもらえますか?)』における『or』もそうである
- 『who visits frequently(その人はしばしば訪れる)』は、『John, who visits frequently, is ill(しばしば訪れるジョンは病気である)』の文の関係節である
- その患者はHIVウイルスを持っている
- 彼はFBIに雇用されている
- われわれの時代は情報技術,すなわちITが特色である
- FBIが調査に乗り出した
- FBI の諜報部員が彼の電話を盗聴し始めた
- FBIは連邦調査局のことである
- 子どもたちのIQをテストする
- エイズはHIVウイルスが原因だという学説
- という文は“I"のあとに“am"を補って考える
- プラスアルファとして、IT技術を獲得したい。
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