IRA暫定派の分裂と北アイルランド紛争
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「アイルランド共和軍」の記事における「IRA暫定派の分裂と北アイルランド紛争」の解説
詳細は「IRA暫定派」を参照 戦後、公民権運動に対するユニオニストによる攻撃や警察による取締を受け、これに対抗する形で統一アイルランドの実現を目指すIRAはその活動を再開。1956年から1960年代初頭にかけては「ボーダー・キャンペーン」と呼ばれる一連のゲリラ攻撃を行なった。しかし、一般からの支持を得られず、成果は出なかった。これにより、組織内部で方向性の違いが顕在化し、1969年から1970年にかけて、完全な武装闘争主義で行くべきとする一派と、政治的に統一アイルランドを達成すべきとする一派とが分裂した。前者が「IRA暫定派」となり、1970年代から1990年代にかけての一般に「北アイルランド紛争」と呼ばれる事態において最重要視される勢力である。 IRA暫定派は、1971年に導入された治安当局による一斉拘留(インターンメント)や1972年1月30日にロンドンデリーで発生した「血の日曜日事件」など、「イギリスによるアイルランドへの暴力的抑圧」を背景に人員と規模を拡大させ、プロテスタント系武装組織や北アイルランドに駐留する英軍や北アイルランド警察(ほとんどがプロテスタント教徒であった)にゲリラ攻撃を加えた。 1976年3月13日、「英国市民に対する攻撃を強化する」と宣言した前後から、ロンドン市内の鉄道を標的とした爆弾テロを始め、イギリス本土(ブリテン島)にも拡大させた。1984年10月の「ブライトン爆弾テロ事件」など、王室や政府を狙ったものから、一般市民を狙った無差別なものまで数々のテロ事件を行なった。ロンドンなどイングランドの大都市の公共交通機関も頻繁に標的になり、また、ロンドンのシティやドックランズ地区といった経済的に重要な場所でも大規模な爆弾テロが行なわれた。マンチェスター、バーミンガムといった地方都市でも爆弾テロは起きている(詳細は英語版ウィキペディアの年表を参照)。他方では、弾圧政策を行うイギリス政府に対する反感もあって、過激なテロ行為にも関わらず北アイルランドのカトリック系住民からのIRA暫定派に対する支持には根強いものがあった。 1916年のイースター蜂起での独立宣言にも見られるように、歴史的にIRAはマルクス主義的な側面を有してきたが(また前述の通りナチスと手を組んだこともある)大戦後の東西冷戦の構図の中、IRA暫定派はソ連やリビアからの軍事的支援を受けて闘争を続け、同様の民族闘争を繰り広げていたスペインのETAや、イタリアの赤い旅団などの極左テロ組織との交流もあった。しかし、冷戦が終結するとこういった構図は壊れ、アメリカでのアイルランド系住民による募金などの民間支援といった形を除いては、IRAを表向きに援助する勢力はなくなった。更にアメリカ同時多発テロ事件によってテロ組織に対する締め付けが厳しくなったことで、2000年代以降はそうした募金もなくなっていったと言われる。 一方で、マーガレット・サッチャー政権時代は強硬な対決姿勢が取られたが、一方で常に和平への取り組みが模索されており、1970年代にはイギリス政府とIRA幹部らとの秘密交渉も行なわれていた。1990年代、サッチャー退陣後のジョン・メージャー政権で和平へ向けた動きが加速。1993年12月にイギリス政府とアイルランド政府がシン・フェイン党の地位を認め、和平協議への参加を認める条件としてIRAに停戦を求める宣言(ダウニング街宣言)をだしたことから、1994年8月にIRA暫定派は停戦を宣言した。1996年に一度破られた(動きが遅々として進まなかったことへの抗議だと解釈される)ものの、アメリカのミッチェル元上院議員を議長とする国際委員会の提案に従うかたちで、1997年7月20日に再び停戦。同年、労働党のトニー・ブレアが首相となったことで、和平プロセスが加速、1998年4月10日にベルファスト合意が成立し、この取り決めに基づいてアイルランドは国民投票を実施、賛成多数で北アイルランドの領有権主張を放棄した。
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