1866年から1933年
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「ゲッティンゲン」の記事における「1866年から1933年」の解説
プロイセン支配下でゲッティンゲンは比較的速やかに新しい関係に適応していった。ゲッティンゲンでは、1832年から1833年までゲッティンゲン大学に籍を置いたオットー・フォン・ビスマルクへの人気が高まっていた。ゲッティンゲン市内には、他の多くの街にあるようなクレーバーベルクのビスマルク塔の他に、クラウスベルクにはビスマルク記念碑も建立された。さらに市内にはビスマルクの家を示す2つの案内板がある。親プロイセン派の国民自由党は狙い通りに支持を集めていったが、一方でヴェルフ派はかつてのゲッティンゲン郡で成功を収めた。 ゲッティンゲンの工業化は比較的遅かった。世紀の変わり目頃にやっとゲッティンゲンの工業生産の広がりについて語ることができるようになる。世界的に尊敬を集める自然科学の中心地とまで評価を高めた大学の近くにあることから、ゲッティンゲンでは精密機械産業、光学産業、電気工学産業が発展し、ゲッティンゲンで最も重要な経済因子であった繊維産業はその座を失った。 ゲッティンゲンの人口は、1870年以降急速に増加した。1875年の人口は17,000人であったが、1900年にはすでに30,000人に達した。当時はまだ住民の多くが旧市街に住んでおり、大学教授をはじめ主に中流から上流階級に属す住民達は市の東部にあるハインベルクの麓に住んでいた。1895年頃には旧市街の外側の住民が急速に増加していった。帝国時代、ゲオルク・メルケルやゲオルク・フリードリヒ・カルゾといった市長の下で、開発が遅れていた公共施設の拡充も始まり、街は近代化されていった。 30年近くにもわたる議論の末、1914年4月に市は路面電車の建設を決定し、6月29日に工事が始まった。レールはすでに納入されたのだが、敷設されることはなかった。8月1日に戦争が勃発したため工事は中止され、それ以後再開されることはなかった。 第一次世界大戦はゲッティンゲンでも熱狂的に歓迎された。多くの教授が愛国的ヒステリー状態に浮かれた。しかし、冷めた言動もすぐに現れ始めた。産業活動は戦時経済に移行し、日用品の供給に問題が生じるようになった。戦争は、ゲッティンゲンに近くにあった。1914年8月にはすでにローベルクの麓のエーバータールに戦争捕虜収容所が設けられ、一時期は1万人近い戦争捕虜が収容されていた。第一次世界大戦が敗戦で終わった1918年に11月革命が起き、ゲッティンゲンでも兵士・人民議会選挙が行われ、決議文が採択された。11月10日、労働者ヴィリ・クレッチュマーによって市庁舎前に赤旗が掲げられた。党派は変動したが、騒乱はそれほど多くなかった。市長ゲオルク・カルゾの下で市政は妨げられることなく継続されていたのである。 ヴァイマル共和政内部の不安定さはゲッティンゲンでも沈静化していった。1920年春のカップ一揆の間、ゲッティンゲンでもゼネラル・ストライキが決議された。軍隊はそれに対して自らの力を誇示するために3月15日に軍事行進を行い、通りを封鎖した。その後のヴァイマル共和政の騒然とした時代に、NSDAPはゲッティンゲンで急速に地歩を固めていた。1922年にはすでにNSDAPのゲッティンゲン支部が創設され、1920年代前半には国家社会主義の中心地となり、ゲッティンゲンではドイツ平均よりも高い得票率を得るのに成功していた。NSDAP、特にSAは定期的に集団で通りに繰り出し、政治的敵対者との衝突を乞いに誘発した。1930年3月にはSAと共産党の赤色戦線戦士同盟との間で暴力沙汰が起きている。共産主義者と国家社会主義者との戦いは、この後、ゲッティンゲンでは日課のようになっていった。 1929年からの世界恐慌はゲッティンゲンにも影響を及ぼした。大企業は閉鎖に追い込まれ、失業率は上昇し、貧困者が増加した。NSDAPはこれによりさらに支持を拡大した。1932年7月21日、ヒトラーの登場がゲッティンゲンにおける帝国議会議員選挙運動のクライマックスとなった。激しい雨にもかかわらず、2万人から3万人の聴衆がカイザー・ヴィルヘルム公園の会場に集まった。その後の7月31日に行われた選挙では、ゲッティンゲン市民の51%が国家社会主義者に投票し、絶対多数を得た。 ゲッティンゲン市とは対照的に、戦後ゲッティンゲンに合併した市区にあたる周辺の町では、国家社会主義者は足場を固めるのが事実上困難であった。特に、当時は独立した町であったグローネは突出して頑強であった。1933年3月5日の選挙では社会民主党が最大勢力となった。グローネは、当時のブラウンシュヴァイク=南ハノーファー選挙区で、この選挙でNSDAPを第一党としなかった、わずか4つの市町村のうちの1つであった。 20世紀の初めから国家社会主義の時代まで、数学と物理学の分野でゲッティンゲン大学は大きな成功を収めた。フェリックス・クライン、ダフィット・ヒルベルト、ヘルマン・ミンコフスキー、エミー・ネーター、ヘルマン・ワイル、リヒャルト・クーラントといった数学者や、マックス・ボルン、ジェイムス・フランクといった物理学者らが、世界的な名声を享受し、この街の栄光を拡げていった。
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