1867年-1984年
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「聖座とアメリカ合衆国の関係」の記事における「1867年-1984年」の解説
1867年から1984年まで、アメリカ合衆国は聖座と外交関係が無かった。幾人かの大統領は、国際人道的並びに政治的問題の議論のため聖座を定期訪問する個人的な特命全権公使を任命している。郵政長官のジェームス・ファーレイ(James Farley)がその公使に就いた最初の人物とされる。ファーレイは聖座との関係を正常化した最初のアメリカ政府高官であり、イタリアの定期船コンテ・ディ・サヴォイア号でソビエトの外務人民委員マクシム・リトヴィノフと共に郵政長官がヨーロッパに向けて出航した1933年のことである。イタリアにて、ファーレイはピウス11世 (ローマ教皇)に謁見し、教皇職を1939年に継ぐことになっていたパチェッリ枢機卿と夕食を共にした。マイロン・チャールズ・テイラー(Myron Charles Taylor)は1939年から1950年まで、大統領のフランクリン・ルーズベルト及びハリー・S・トルーマンに(バチカンへの特命公使として)仕えた。 ニクソン、フォード、ジミー・カーター、レーガンの各大統領も教皇への個人的な特命全権公使を任命している。また前述の大統領に加えて、トルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン及びそれ以降の大統領全員が、黒の衣装とベールを身に着けた大統領夫人を伴って、通例だと彼らの政権最初の数ヶ月以内にバチカンへ旅行することで、教皇の祝福を授かりに参じている。 1951年10月20日、トルーマン大統領はマーク・W・クラーク元大将を聖座へのアメリカ合衆国の使者に任命した。 クラークは後にトム・コナリー上院議員及びプロテスタント団体からの抗議を受けて、1952年1月13日にこの任命を固辞した。公的な禁止は1983年9月22日まで続いて、「ルガー法(Lugar Act)」によって撤廃された。 バチカンは、歴史的には少なくともジョン・F・ケネディの大統領就任までは非米的だと非難されてきた(聖座から異端だと非難されたアメリカニズム(Americanism)や、アメリカの反カトリック主義(英語版)を参照)。非難の大部分はポール・ブランシャード(英語版)の著書『American Freedom and Catholic Power』に見ることができ、そこでは聖座が危険かつ強力で、外国の非民主的な制度であるとの理由で糾弾されていた。
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