1867年: 共和国軍による首都攻略
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「メキシコ出兵」の記事における「1867年: 共和国軍による首都攻略」の解説
詳細は「w:Siege of Mexico City」および「メキシコシティ包囲戦」を参照 共和国軍はサカテカス州の残り、すなわちサン・ルイス・ポトシとグアナフアトを1月に制圧した。フランス軍2月5日に首都に退避した。 1867年2月13日、マクシミリアンはケレタロに撤退した。共和国軍は3月9日からケレタロ包囲を開始し、4月12日からメキシコシティを包囲した。帝国軍のケレタロからの出撃は4月27日に失敗した。 5月11日、マクシミリアンは敵の戦線からの脱出を試みた。しかし彼がこの計画を実行する前に、5月15日には阻止されていた。軍事裁判ののち、彼は死刑を言い渡された。ヨーロッパ諸国の君主やヴィクトル・ユーゴーやジュゼッペ・ガリバルディなど著名な自由主義者はメキシコにマクシミリアンの助命嘆願の電報を打ったが、フアレスは、メキシコは外国勢力からのいっさいの介入を容認しないとのメッセージを内外に発信することが必要だと確信し、判決の変更を拒絶した。 6月19日に、マクシミリアンはミゲル・ミラモンとトマス・メヒアとともにケレタロ近郊の丘「鐘の丘(w:Cerro de las Campanas)」にて、フランスの軍事介入の間も連邦政府の機能を維持してきたフアレス大統領に忠実な軍によって処刑された。アメリカ合衆国がリオグランデ川に軍を展開するとフアレスの地位は一層強化され、メキシコへの介入は脅かされた。メキシコシティはマクシミリアンの処刑の翌日に開城した。 共和国は回復され、フアレス大統領は首都に国権を遷したが、マクシミリアンはフアレスの自由主義改革を支持していたので政策の変化はほとんどなかった。勝利のあと、保守勢力は、侵略してきたフランス軍の同盟者と徹底的に否定され、その影響力は消滅した。自由主義派は「復帰した共和国」の始まりの年の間は比類のない政治勢力となった。
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