1867年の財政危機とその影響
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「ロンドン・ブライトン・アンド・サウス・コースト鉄道」の記事における「1867年の財政危機とその影響」の解説
1866年に発生した銀行オーバーエンド・ガーニー・アンド・カンパニー(英語版)の破綻と翌年の金融危機により、LB&SCRは破産寸前まで追い込まれた。 臨時株主総会は延期され、また取締役会の権限は会社の財務状況とその見通しに関する報告書を受け取るまで停止された。 報告書では、同社が乗客からの利益に支えられて大規模な設備投資を展開しすぎており、金融危機によって乗客が急減少したことが明らかとなった。特にホーシャム - ギルフォード間、イースト・グリンステッド - タンブリッジ・ウェルズ(英語版)間、バンステッド - エプソム間など、いくつかの地方路線が赤字になっており、LB&SCRは同様に見通しの悪い路線の建設や買収に力を注いでいた。同報告書は計画を推進した社長のシュスター、秘書のフレデリック・スライトを痛烈に批判しており、結果的にこの2人は辞任することになった。ただし、これらの路線は競合する鉄道会社との競争を防ぐための手段として建設・買収されたことも報告書は指摘している。検証委員会はいくつかの計画を放棄し、サウス・イースタン鉄道(英語版)(SER)と作業協定を結ぶことを推奨した。 またこの委員会によって推薦された人物の多くが取締役となり、元社長のサミュエル・レイング(英語版)も委員会に説得されて復帰した。会社はその後彼と新任秘書兼ゼネラル・マネージャーのJ.P.ナイトの手腕により、1870年代前半には徐々に財政的な健全性を回復していった。 財政危機の影響で全ての路線建設が一時中止され、3つの大規模計画が放棄された。ウーズ・ヴァレー鉄道(英語版)の建設、同鉄道のセント・レオナーズ(英語版)延伸、サリー・アンド・サセックス・ジャンクション鉄道(英語版)の建設である。タンブリッジ・ウェルズ - イーストボーン間を結ぶカックー線(英語版)の建設も財政が健全化するまで凍結された。その後の10年間は、ロンドンやブライトンで路線網の運用を強化するための支線や信号所を追加したり、他の鉄道会社と共同で小規模な事業を行ったりする程度だった。後者の例としては、1868年にロンドンのストリータム(英語版)からトゥーティング(英語版)を経由してウィンブルドンへ至る短距離路線、1876年にポーツマス・タウン駅(英語版)からポーツマス・ハーバー駅までの接続線があるが、これらはいずれもロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道(英語版)(L&SWR)との共同事業である。 SERとの「業務提携」の提案は実現しなかったが、両社は積極的に検討を続け、後にロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道(英語版)(LC&DR)も参加することになった。しかし1875年には合併案に課した条件に反発したSERが交渉を取りやめ、合併は立ち消えとなった。その後もLB&SCRは独立した鉄道会社として存続したが、SERとLC&DRは1899年にサウス・イースタン・アンド・チャタム鉄道(英語版)設立のための作業部会を作った。 当時LB&SCRが力を入れていた路線の1つがイースト・ロンドン鉄道である。この鉄道はLB&SCR以外にグレート・イースタン鉄道(英語版)(GER)、ロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道(英語版)(LC&DR)、サウス・イースタン鉄道(英語版)(SER)、メトロポリタン鉄道、ディストリクト鉄道の5社が関わる事業であった。これは マーク・イザムバード・ブルネルとその息子 イザムバード・キングダム・ブルネルによって1825年から1843年にかけて建設されたテムズトンネルの再活用を狙っていた。1869年3月にLB&SCR本線のニュー・クロス(英語版)とワッピングの間に、GER本線との接続線が建設された。この線は主に両鉄道間の貨物輸送を目的としていたが、LB&SCRはリバプール・ストリート駅とクロイドンを結ぶ旅客列車を導入した。
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