イーストボーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/23 09:31 UTC 版)
イーストボーン Eastbourne ![]() |
|
---|---|
![]() イーストボーンのビーチ |
|
位置 | |
![]() イーストボーンの位置 |
|
座標 : 北緯50度46分12秒 西経00度16分48秒 / 北緯50.77000度 西経0.28000度 | |
行政 | |
国 | ![]() |
連合王国 | ![]() |
リージョン | サウス・イースト・イングランド |
カウンティ | イースト・サセックス |
ディストリクト | イーストボーン |
人口 | |
人口 | (2019年7月現在) |
ディストリクト域 | 107,000人 |
その他 | |
等時帯 | 西ヨーロッパ時間 (UTC+0) |
夏時間 | 西ヨーロッパ夏時間 (UTC+1) |
Postcode | BN20-23 |
市外局番 | 01323 |
公式ウェブサイト : www.eastbourne.gov.uk |

イーストボーン(英: Eastbourne)は、イギリスのイングランド南部イーストサセックスのタウンかつバラである。
イギリス海峡に面しており、イギリス有数のリゾート地として知られる。海岸線には灯台と小石の多い砂浜がある。ビーチに沿ってプロムナードが続き、ヴィクトリア朝からの瀟洒なリゾートホテルが軒を連ねる。2019年7月時点の人口は、約107,000人。
町の南西5Kmには、高さ163m に及ぶ有名観光地ビーチー・ヘッドおよびセブン・シスターズがある。これらは白亜紀に形成されたチョーク岩からなる白い崖である。19世紀に建てられた桟橋のイーストボーン・ピアは、町のランドマークとなっている。
歴史
1804年から1810年にかけて、ナポレオンの侵入を阻止するため、要塞イーストボーン・リダウトが建造された。1849年にはロンドンからの鉄道が開通し、海浜リゾートとして繁栄した。
交通
ロンドンから南に約105kmの地点にある。
中心部にイーストボーン駅があり、ロンドン・ヴィクトリア駅からゴヴィア・テムズリンク・レールウェイが「サザン」ブランドで運行する列車で約1時間半を要する。東はヘイスティングスを経てアシュフォード国際駅へと、西はブライトンやポーツマスへと、鉄道路線が続いている。
イーストボーン内は路線バスがよく走っており、イースト・サセックス各地へも路線が伸び、近隣のブライトンへもアクセス可能である。また、ロンドン・ヒースロー空港へは、ブライトンからナショナル・エクスプレスのコーチ(長距離バス)が運行している。
出身人物
- テリーザ・メイ - 政治家
関連項目
- セブン・シスターズ
- イーストボーン・ボロFC
- フリードリヒ・エンゲルス - エンゲルスの遺骨が散骨されている。
外部リンク
イーストボーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/27 08:23 UTC 版)
「ジョン・ボドキン・アダムズ」の記事における「イーストボーン」の解説
アダムズは、1922年にサセックス、イーストボーン(Eastbourne)に着き、そこに彼は、母およびいとこサラ・フローレンス・ヘンリー(Sarah Florence Henry)とともに住んだ。1929年に彼は、患者ウィリアム・モーフッド(William Mawhood)から2,000ポンド(2011年の物価で104,247ポンドに相当する)を借り、トリニティー・トゥリーズ(Trinity Trees)(当時、シーサイド・ロード(Seaside Road)として知られた)の、18室の邸宅ケント・ロッジ(Kent Lodge)を買ったが、これは上流むけの住所であった。アダムズは、食事時にモーフッドの住まいに、母およびいとこを連れさえして、しばしば押しかけたものであった。彼はまた、品目を地元の店らの勘定に、彼らの許可のないまま、つけはじめた。ミセス・モーフッド(Mrs Mawhood)はのちに、警察にたいしてアダムズを「本当のたかり屋」("a real scrounger")と評することになる。1949年にミスタ・モーフッドが死亡したとき、アダムズは、招かれないのに未亡人のもとを訪れ、「おつれあいの物か何かを」("something of her husband's")と言いながら、彼女のベッドルームのドレッシング・テーブルから22カラットの金のペンを取った。彼はふたたび彼女のもとを決して訪れなかった。 アダムズの非慣習的なやりかたに関するゴシップは、1930年代なかばまでにはじまっていた。1935年にアダムズは患者マティルダ・ホイットン(Matilda Whitton)から7,385ポンドを相続した。彼女の全財産は11,465ポンドにのぼったし、それぞれ2011年の価値で430,931ポンドと669,007ポンドに相当する。遺言書は、彼女の親戚によって異議を申し立てられたが、しかし裁判で是認され、ただしアダムズの母に100ポンドをあたえる補足書はくつがえされた。アダムズは、彼が患者らを「殺(ばら)した」("bumping off")ことに関する「匿名の郵便はがき」("anonymous postcards")を受け取りはじめたが、これは彼が1957年に新聞のインタヴューで認めたことである。これらは、戦争まで1年に3通ないし4通の割合で受け取られ、それから1945年にふたたびはじまった。 アダムズは、戦争のあいだじゅう、イーストボーンにとどまり、そして一般開業医師が召集された同僚の患者を加療する「プール・システム」("pool system")のために選ばれるのが望ましいとほかの医師らから思われないことに「激怒した」("furious")。1941年に彼は麻酔学の学位記(diploma)を受領しそして1週間に1日、地元の病院で働き、そこで彼は、へまをやらかす人(bungler)という評判をえた。彼は、手術中に寝入り、ケーキを食べ、金銭をかぞえ、そして麻酔ガス・チューブを取り違えさえし、患者らをめざめさせあるいはチアノーゼにした。1943年に彼の母親が死亡しそして1952年にいとこサラが癌になった。アダムズは、彼女が死亡する半時間前に彼女に注射をおこなって、そして歴史家パメラ・カレン(Pamela Cullen)によれば、これが唯一の、「博士(the Doctor)が『最期をやすらかにし』('easing the passing')ていたとみなすことができる事例」("case where it can be considered that the Doctor was 'easing the passing'")である。 アダムズの経歴は大成功で、そして1956年までに「おそらく彼はイングランドで最も裕福な開業医師であった」("he was probably the wealthiest GP in England")。彼は、地域の最も有名な、かつ影響力を有するひとびとのうちいく人かを診察したが、そのなかには、下院議員でオリンピックのメダル獲得者デヴィッド・バーリー、アドミラル(Admiral)のロバート・プレンダーガスト(Robert Prendergast)、産業経営者サー・アレクサンダー・マグワイア(Sir Alexander Maguire)第10代デヴォンシャー公爵エドワード・キャヴェンディッシュ(Edward Cavendish, 10th Duke of Devonshire)、イーストボーンの警察署長(Chief Constable)リチャード・ウォーカー(Richard Walker)および大勢のビジネスマンがいた。幾年間もうわさになり、そしてすくなくとも132通の遺言書でアダムズの名を挙げられたのちに、1956年7月23日に、イーストボーン警察は、或る死者に関する匿名の電話をうけた。それは、ミュージック・ホール芸能人レスリー・ヘンソン(Leslie Henson)からであったが、彼の友人ガートルード・ハレット(Gertrude Hullett)が、アダムズの治療を受けているあいだに予期せず死亡した。
※この「イーストボーン」の解説は、「ジョン・ボドキン・アダムズ」の解説の一部です。
「イーストボーン」を含む「ジョン・ボドキン・アダムズ」の記事については、「ジョン・ボドキン・アダムズ」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- イーストボーンのページへのリンク