1866年-1900年
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「ウェーコ (テキサス州)」の記事における「1866年-1900年」の解説
1866年、ウェーコの有力者達が幅の広いブラゾス川に最初の橋を架ける大きな計画を始めた。彼等はウェーコ橋会社を作って、長さ475フィート (145 m) のレンガ橋台ウェーコ吊り橋を建設し、1870年に完成したときはミシシッピ川より西で最長の橋だと言われた。この会社はニュージャージー州トレントンにあるジョン・オーガスタス・ローブリングが所有する会社に橋のためのケーブルと鉄構造部材を発注した。これは当時としては画期的な技術的快挙となった。ローブリングの会社は1870年にブルックリン橋の建設を始めた。ウェーコ橋の経済効果は即座に大きくなり、移民達が馬に曳かせた馬車を安全に渡河させられるようになったので、近くのチザム・トレイル(英語版)から牛追い達を集め、市内の人口を増した。1971年以降、この橋は歩行者の通行のみということになり、国定歴史登録財となっている。 1800年代遅く、「保留地」と呼ばれた赤線地区がウェーコで成長したので、売春が市によって規制された。保留地は1900年代初期には止めさせられた。1885年、ソフトドリンクのドクターペッパーが、ウェーコのモリソンが所有するオールドコーナー・ドラッグストアで発明された。 1873年、フォートワースでアディソンとランドルフのクラーク兄弟によってアッドラン・カレッジが設立された。この学校が1895年にウェーコに移転し、その名前をアッドラン・キリスト教大学と変え、ウェーコ女子カレッジの空いていた建物に入った。この大学は1902年にテキサスクリスチャン大学と改名し、1910年に大学の本館が焼けた後はウェーコを去った。テキサスクリスチャン大学はフォートワースに移転するために50エーカー (200,000 m2) のキャンパスと200,000ドルの資金をフォートワース市から提供された。1845年にインデペンデンス市にベイラー大学が設立され、テキサス州では最古の高等教育機関になっていた。これが1886年にウェーコ市に移転してウェーコ大学と合併し、市としてはなくてはならない部分になった。この大学のストレッカー博物館は2003年に閉館になるまで州内では最も古くから連続して運営されている博物館であり、その収集品は新しいメイボーン博物館複合施設に移された。 1890年代、ウィリアム・カウパー・ブランがウェーコで「アイコンクラスト」という新聞を発行し、大きな成功を収めた。その標的の一つがベイラー大学だった。ブランは、ベイラー大学の職員が南アメリカの子供達を宣教師達に集めさせて輸入し、彼等の中から何人かを家僕にしていることを暴いた。ブランはベイラー大学の支持者であるトム・デイビスに背中から撃たれた。ブランは振り返って自分の拳銃を抜き、デイビスを殺した。ブランはその友人の家で手当てされたが、その傷が故で死んだ。 1894年、この地域の綿花産業の圧倒的な貢献度を反映するために初代のコットンプレースという祭と展示の会場が作られた。南北戦争が終わって以降、綿花はブラゾス渓谷とボスク渓谷で栽培されており、ウェーコは国内でも第1位の生産地として知られるようになった。その後の23年間毎年の展示会には800万人以上の参観者を集めた。一ヶ月にわたる展示会が行われた贅沢な建物が火事で焼け、1920年に再建された。1931年、この展示会は世界恐慌の餌食になり、建物は朽ち果てた。しかし、毎年のコットンプレース・ページェントは継続され、ブラゾス川祭と共に四月下旬に開催された。 1896年9月15日、ウェーコの北約15マイル (24 km) で「衝突」が起こった。「クラッシュでの衝突」というのがミズーリ・カンザス・テキサス鉄道(M-K-T、あるいはカティと呼ばれた)が行った宣伝用文句であり、2両の機関車を意図的に正面衝突させたものだった。この衝突は家族連れに食事、ゲームや娯楽を用意した興行を意図したものだったが、双方のボイラーが同時に爆発して金属片を空中に飛ばした。2人が死亡し、6人が重傷を負った。
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