1度目の議員期(1784年 – 1790年)
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「デイヴィッド・カーネギー (第4代準男爵)」の記事における「1度目の議員期(1784年 – 1790年)」の解説
1780年イギリス総選挙では初代パンミュア伯爵ウィリアム・モールの支持を受けて、アバディーン・バラ選挙区(英語版)で現職議員アダム・ドラモンド(英語版)との選挙戦に挑もうとしたが、失敗に終わった。1782年2月にフォーファーシャー選挙区(英語版)の補欠選挙に出馬してアーチボルド・ダグラス(英語版)に敗れた後、選挙申し立てでダグラスがアンガス伯爵位の推定相続人で庶民院議員への被選挙権がないと主張したが、これも失敗に終わっている。一方、アバディーン・バラ選挙区での努力も続け、1783年までにブレッキン(英語版)、モントローズ(英語版)、アーブロース(英語版)といったバラへの支配を固めたため、ドラモンドはイングランドの選挙区での当選を模索し、アバディーン・バラ選挙区を諦めた。カーネギーは1784年イギリス総選挙で野党候補としてアバディーン・バラ選挙区とフォーファーシャー選挙区から出馬した。フォーファーシャーでは第8代ダルハウジー伯爵ジョージ・ラムゼイがダグラスを支持したためカーネギーが撤退したが、アバディーンではハーキュリーズ・ロス(英語版)の挑戦を退けて当選した。 議会ではアイルランド貿易問題(1785年5月)と摂政法危機(Regency Crisis、1788年 – 1789年)で野党に同調して投票した。1784年から1790年まで議会で演説した記録はなかったが、ジョージ・デンプスター(英語版)によると、カーネギーは議会で演説しようとしたが、「議長殿、私は思う、私は思う、私は思う」(Mr. Speaker, I conceive, I conceive, I conceive)と言ったきり、言葉がでなくなった。これに対し、デンプスターは横やりを入れ、「この栄誉あるジェントルマンは3回も考えたが、何も出さなかった。したがって、私たちはこれ以上彼の不成功の思考に煩わされるべきではないと私は思う。」(The honourable gentleman has conceived three times and has brought forth nothing. I therefore conceive we ought to be troubled no more with his abortive conceptions.)とカーネギーの「私は思う」への皮肉を返した。 1790年イギリス総選挙ではアバディーン・バラ選挙区を離れると、二度と同選挙区で当選できなくなると考えてフォーファーシャーにおける不出馬を決めた。アバディーン・バラ選挙区ではウィリアム・モール閣下(後の初代パンミュア男爵)の支持を受けたが、政敵であるデイヴィッド・スコット(英語版)とヘンリー・ダンダスの介入により、先の選挙で得た3票(ブレッキン、モントローズ、アーブロース)のうちモントローズの1票を対立候補アレクサンダー・カレンダー(Alexander Callander)に奪われたため、落選して議席を失った。
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1度目の議員期
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「ルーシャス・オブライエン (第13代インチクィン男爵)」の記事における「1度目の議員期」の解説
1826年イギリス総選挙に先立つクレア選挙区(英語版)での選挙活動ではジョン・オームズビー・ヴァンデリア(英語版)が1826年春まで立候補に前向きだったが、病気と自身が政府から受け取っていた年金を理由に立候補を諦め、ヴァンデリアの代わりに初代準男爵サー・オーガスティン・フィッツジェラルド(英語版)を立候補させる動きも実現しなかった。同年夏に有力者の初代カニンガム侯爵ヘンリー・カニンガムの三男アルバート・デニソン・カニンガム卿(英語版)の立候補が噂されたが、最終的には立候補を辞退した。このようにうわさが飛び交う中、オブライエンは1826年5月とともにクレア県に戻り、父と同じく親カトリックの立場であると表明した。結局オブライエンの父が恐れていた選挙戦は起きず、オブライエンは無投票で当選した。 1827年1月より登院したオブライエンは公約通りカトリック解放に賛成(1827年3月)、審査法廃止に賛成(1828年2月)した。1828年3月にプロテスタントの1人としてカトリック解放への支持宣言に署名、1829年1月にはダブリンでカトリック支持集会に出席、1829年3月に1829年ローマ・カトリック信徒救済法(最終的に成立したカトリック解放法案)に賛成票を投じた。カトリック関連以外ではクラレンス公ウィリアムへの年金法案に賛成(1827年3月)、ユダヤ人解放に賛成(1830年5月)、通貨偽造罪の死刑廃止に反対(1830年6月)、選挙法改正をめぐりバーミンガム、リーズ、マンチェスター選挙区の設立に反対(1830年2月)した。 しかし、カトリック解放直前の1829年5月にダニエル・オコンネルの議員就任をめぐる採決で公約を違えて欠席したことが失点になり、オコンネルが宣誓を拒否して同年7月に再選挙が行われたときにオコンネルから「クレア県のために何もしていない」と批判された。1830年イギリス総選挙ではオブライエンがトーリー党候補として再選を目指し、ジェームズ・パトリック・マオン(英語版)とウィリアム・ニュージェント・マクナマラ(英語版)が減税、選挙法改正、アイルランドへの救貧法導入を公約して立候補した。このうち、オブライエンは政府の支持を受けた与党候補で、マオンとマクナマラは野党候補だった。オコンネルも一時は再選を目指したが、先の補欠選挙でマクナマラから支持を受ける代償として次の総選挙で議席をマクナマラに譲ると約束している上、マクナマラと争った結果がトーリー党ののオブライエンとウィリアム・ヴィージー=フィッツジェラルド(英語版)の当選という危険もあった。オコンネルはなおも立候補を堅持しようとしたが、マクナマラが約束を公開すると脅すと、やむなくほかの選挙区に移った。 投票自体はオブライエンが終始劣勢であり、マクナマラ664票、マオン571票、オブライエン399票という結果になったが、暴力による脅しと金銭支払いの証拠が多数あったため、選挙申立が成功し、1831年3月にマオンの当選無効が宣告された。同3月に行われた補欠選挙ではオブライエンの代わりに父が立候補し、マオンが立候補を禁じられたため代わりにオコンネルの息子モーリス・オコンネル(英語版)が立候補した。立候補にあたり、オブライエンの父はグレイ伯爵内閣の第1回選挙法改正への支持を表明したが、オコンネルは選挙法改正、合同法廃止を公約、さらに大衆に嫌われていたアイルランド関連法律の廃止も公約し、結果はオコンネル325票、オブライエン177票でオコンネルが当選した。
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