首謀者・山崎晃嗣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 16:37 UTC 版)
山崎は、医師・木更津市市長だった山崎直の五男として、1923年10月、木更津市に生まれる。旧制木更津中学(現・千葉県立木更津高校)から旧制第一高等学校を経て1942年に東京帝国大学法学部に入学するが、学徒出陣により陸軍主計少尉に任官するも北海道旭川市の北部第178部隊の糧秣委員として終戦を迎える。戦時中、上官の私的制裁により一高時代の同級生を亡くすが、上官の命令により秘密にさせられた。 陸軍主計少尉だった終戦の際、上官の命令で食糧隠匿に関与するが、密告によって横領罪で逮捕。上官を庇って懲役1年6か月・執行猶予3年の判決を受けるが、尋問時に警察から虐待されたうえ、事前に約束された分け前にあずかることができなかった。同級生の死と共に、この事件の深い失望や虚無感が後々の山崎の人生や「人間はもともと邪悪」と記された彼の遺書に影響する。 東大復学後はすべての科目で優を取ろうと猛勉強し、勉強や睡眠、果てはセックスに至るまで、細かく分刻みにスケジュールを記録していった。結局、すべての科目で優を取るという当初の目標は達成されなかったものの、偏執狂的とも言えるスケジュールをつける習慣は、死の直前まで続いていた。 対人関係 彼が心を許した友人はごく少数で、そのうちの一人に上記の同級生の死の真実を告白している(この事実は保坂正康の評伝により公にされた)。また、山崎は「金儲けは人間の能力を数値化する物差し」という名言も残し、いつも日記をつけて自分の行動を〇、×、△・・・と数値化していた。 女性関係も奔放で、山崎は秘書募集という名目で自分の愛人を広く募集した。その愛人は8人いたが、恋愛やプラトニック・ラブという感情とはまったく無縁であった。山崎は「誠意とはいいわけと小利口に逃げることである。私の誠意を見てくださいという言葉ほど履行されぬものはない。人は合意にのみ拘束される」と愛人の1人に告白している。その後、山崎は自分の採用した秘書兼愛人によって人生の歯車が狂っていく。その女性は光クラブの内情を探るために京橋税務署員から頼まれた女スパイであり、彼女は自分の正体を隠して秘書として山崎と親密になっていく。そして、山崎の留守の時に光クラブの経営実態、内部情報を緻密に調べていき、ついに光クラブの重大な情報を発見すると税務署に密告し、山崎は検挙されることとなる。 実業家藤田田は、東大で山崎の一級下であり、クラブへの出資者でもあった。自殺直前の山崎から資金繰りに行き詰まったことを相談された藤田は、「法的に解決することを望むなら、君が消えることだ」と言った。 その他 山崎の死後、彼が残した手記が『私は天才であり超人である 光クラブ社長山崎晃嗣の手記』(1949年)、『私は偽悪者』(1950年)の名前で刊行された。このうち、『私は偽悪者』は牧野出版から復刻されている。 2007年10月26日、東京・神田神保町の神田古書店街で開かれた古本まつりに、光クラブ設立前夜の金融業を始める以前の1946年3月から1947年12月までの1年半余にわたる日記が出品された。 生家は現在、木更津市が管理する山崎公園となっている。
※この「首謀者・山崎晃嗣」の解説は、「光クラブ事件」の解説の一部です。
「首謀者・山崎晃嗣」を含む「光クラブ事件」の記事については、「光クラブ事件」の概要を参照ください。
- 首謀者・山崎晃嗣のページへのリンク