首謀人の届け出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 01:01 UTC 版)
12月22日、米沢藩は首謀人として千坂高雅ではなく、色部長門を新政府に届け出る。 この届出については、藩主上杉茂憲や宮島誠一郎が米沢藩の届け出る首謀人は戦死した色部、一人だけで認めてもらえないか、複数の政府要人に懇請し、その賛助を得て三条実美に委細が具申され、認められた経緯があり、千坂自身はそのことを後で知った。 色部家は新政府の命でいったん家名断絶となったが、米沢藩では一族の山浦家を復興させ、色部長門の長男が相続することで色部家の血脈は保たれた。 尚、昭和7年に色部長門が戦死した地(新潟市「戊辰公園」)に「色部長門追念碑」が建立されたが、その碑裏面に刻まれている発起者の中に千坂高雅の子息、千坂智次郎と千坂洋三郎の名がある。千坂高雅の色部長門追悼の思いが子息に継承されていた。
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