震央および震源域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 10:08 UTC 版)
推定震度分布から、おおよその震央が推定される。強震域の分布を近代に発生した地震と比較することにより、おおよその震源域の推定が可能である。しかし記録の欠損により正しい震央や震源域が不明であるものも少なくない。また、断層の破壊開始点である地震学的な震源やその地上投影である震央は地震計が無ければ定まらない。宝永地震や安政東海・南海地震の様な震源域が広大な巨大地震では震央位置は無意味である上に誤解を与えることもある。 内陸の地震では、地震学的震央に近い位置では発震後家が直ちに潰れて圧死する場合が多くなると考えられるため、家屋倒壊率ではなく死者数の分布から、より地震学的震央に近いものが推定できるとの研究もある。 白鳳地震は古記録には飛鳥周辺と思われる被害の様相と、伊予および土佐の地変、漠然と諸国に大被害が発生したと記されているのみである。しかし、より詳細な記録を有する宝永地震や安政南海地震の記録と付き合わせることにより、ほぼ同様の地殻変動が生じているものと推定され、さらに近代的観測記録を有する1944年の東南海地震および1946年の南海地震の地盤変動の水準測量結果を比較することにより、繰り返し発生している南海地震であると推定された。さらに、東海地方の遺跡の発掘調査による液状化痕、海岸の地質調査からほぼ同時期に東海・東南海地震も連動したと推定され、震源域がさらに広い可能性がある。 869年の貞観地震は漠然と陸奥国地大震動、津波が内陸まで遡上したと読める記録があり、歴史資料の調査あるいは、仙台平野のトレンチ調査により、9世紀頃、およびさらに幾層かの有史以前の津波堆積物が内陸まで達していることが明らかになっていた。しかし明治三陸地震よりも甚大な津波が発生したことを示唆するもので、ここまで内陸に達する津波記録は近代では存在せず、この地震の実体は不明な点が多いとされていた。産業技術総合研究所による数値実験解析によりM8.4の巨大地震と推定されたが、東北地方太平洋沖地震の発生はこの地震の全容解明のきっかけとなり、ほぼ同域の広い範囲を震源域とする類似した地震であると考えられるようになった。 1099年の康和地震は、もともと摂津、大和の記録しか存在せず畿内付近が震央とされていたが、土佐の田畑の沈降記録が発見され、より広い範囲を震源域とする南海地震と推定されることとなった。しかし、その解釈にも疑義が唱えられ、康和南海地震は存在せず永長地震が南海地震を含む可能性があるなど、新たな知見により解釈の変更もあり得る。 1703年の元禄地震は関東南部の広い範囲に強い震動と沿岸に強大な津波をもたらしているが、房総半島の隆起記録は1923年の関東地震に類似し、これにより相模トラフのプレート間地震と推定され、津波、隆起の規模はより大きいものであった。この4年後に宝永地震が発生するなど、過去においても巨大地震が時間的に接近して続発する例がしばしば見られる。
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