陸上の世界へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 01:43 UTC 版)
1920年(大正9年)、広島一中3年時にアントワープ五輪陸上十種競技代表の野口源三郎が広島で講習会を開くこととなり、参加することになった。この時に織田は走高跳で自分の身長(当時155cm)より高く飛んでみせ、それを見た野口から褒められたことが陸上へ進むきっかけとなった。野口の指導を受けた5日間を記したノートは「原点ノート」と呼ばれ、海田町ふるさと館に展示されている。 1921年(大正10年)広島一中4年時、徒歩部(陸上部)ができたことから、サッカー部を辞め徒歩部へ入部した。当時は強豪だったサッカー部がグラウンドを占拠したことから隅で練習を積み、また徒歩部には指導者がいなかったため本屋を歩きまわり独学で練習した。走幅跳の空中での動作がうまくいかず、自宅近くを流れる瀬野川に向かって跳び、足の振り方を練習した。この年、上海で開かれた第5回極東選手権競技大会で、日本の走高跳陣は惨敗した。織田は自分の力なら十分入賞できることを知って残念がった。織田の記録は地方に埋もれたままだった。上海からの帰途、広島に立ち寄った極東大会のサッカー代表の中に十種競技をやっていた佐々木等がいた。指導を受けた織田は何をやっても佐々木を凌ぎ、走高跳では日本記録を軽く超えた。びっくりした佐々木が惜しいことをしたと雑誌『運動界』に織田を紹介した。 1922年(大正11年)、広島一中5年の時、9月に大阪で神戸高商主催の全国中等学校陸上競技大会が開かれることを新聞で知る。矢もたてもたまらず校長室に行き、弘瀬時治校長に「全国大会に参加させてください」と直談判。弘瀬から「参加させてもいい。しかし本校の方針は参加させるだけではいかん。勝つ者しか参加させない主義である。キミは勝つ自信があるのか」と問われた。「勝てるかどうかわかりません」と言えば参加のチャンスは失われると考えた織田は思わず「絶対に全国制覇する自信があります」と答えた。弘瀬は「そんなに自信があるなら行け。石にかじりついても勝ってこい」と激励し「ところで遠征する金はあるのか」と聞いた。「ありません」と答えると弘瀬はポケットから70円を出し、「これでがんばってこい」とお金を手渡した。広島一中はサッカー部の全盛時代で陸上部は創部二年目で日陰の存在、部費は30円だった。70円は大金で織田は感激のあまり体が震えた。早速十数人の部員を集めて「どうしても勝とう」と誓い合った。夏休みの40日間、暑い広島の夏にサッカー部が朝夕の涼しい時間を練習時間に当てられ、陸上部が割り当てられたのは午後1時から3時まで。部員は日射病で次々に倒れ最後までやり抜いたのは織田と1年先輩の沖田芳夫の二人だけ。織田はもともとジャンプが専門だったが部員がいなくなったため、あらゆる種目に取り組んだ。こうして広島一中は全国中等学校陸上競技大会に織田と沖田に貫田武を加え、たった3人で初参加し、初優勝を果たし、織田自身も走高跳と走幅跳で優勝した。織田と沖田は中国地方の大会ではほぼ二人だけで全競技勝利しており、のち「広島一中の双璧」と謳われる。 一か月後の11月、17歳の時に広島高師で行われた第6回極東選手権競技大会一次予選会において走高跳1m73、走幅跳6m29の日本新記録を樹立、三段跳は13m38で日本記録にあと7cm届かなかった。灼熱の猛練習が名選手への道を拓いた。 1923年(大正12年)、家庭の経済的理由から授業料のいらない広島高等師範学校臨時教員養成所へ進学する。なお沖田はこの年に進学しており2人共1922年度つまり同年度に広島一中卒業ということになる。同年、第6回極東選手権に日本代表として初選出。うち広島出身者は織田と沖田、浅岡信夫ら5選手だった。初の国際競技会出場だった織田は走幅跳、三段跳で優勝。当時の毎日新聞は「日本一のジャンパー」「跳躍の鬼才」「ジャンプの麒麟児」と謳った。日本体育協会は「此の大会の偉大なる収穫は日本の陸上及び水泳競技においてようやく世界的レベルに至った一事と、陸上の織田幹雄、水泳の高石勝男と天才的少年が活躍したことである」と評した。 1924年(大正13年)広島高師臨教2年時、パリ・オリンピックに出場。五輪日本選手団は陸上・水泳・テニス・レスリングの全28人で、織田は跳躍では唯一の日本代表だった。当時の日本陸上は世界の情勢に程遠く、オリンピック村で他国のチーム関係者に話を聞いて驚くような状況だった。織田は走高跳では予選落ちするも、三段跳で14m35(日本新記録)をたたき出し、日本陸上初の入賞(6位)を果たした。
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