第1部 金栗四三篇・後半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:01 UTC 版)
「いだてん〜東京オリムピック噺〜」の記事における「第1部 金栗四三篇・後半」の解説
1913年(大正2年)春、四三は、熊本の資産家でスヤの姑・池部幾江の要請で幾江の養子となりスヤと結婚するが、ベルリンオリンピック出場に向けて鍛練に打ち込むため、スヤを熊本に残して東京に戻る。しかし、第一次世界大戦の影響でベルリンオリンピックの開催中止が決定する。ショックのあまりに塞ぎ込む四三だったが、「自身が50人いたら50個メダルが取れる」という発想から、後継者の育成を目指す。その中で駅伝を思いつき、史上初の駅伝「東海道五十三次駅伝競走」、「箱根駅伝」を実現させる。1920年(大正9年)、アントワープオリンピックの開催が決定。しかしほとんどの競技で日本は惨敗し、四三も16位に終わる。浜松で暮らす少年・田畑政治は学友の内田正練が敗北したことにショックを受ける。 スヤや国民に対して面目無さを感じ、ベルリンを放浪していた四三は陸上競技を嗜む現地の女性たちと出会い、日本女子へのスポーツの普及を志す。東京府立第二高等女学校へ赴任した四三は、授業を差し置き女生徒らにスポーツを推奨して反発を受けるが、同僚教師のシマの協力もあり、生徒たちは次第にスポーツに傾倒する。嘉納が手がけた明治神宮外苑競技場が完成目前の1923年、関東大震災が発生。東京は震災で未曾有の壊滅状態となり、シマが行方不明となる。 一方、孝蔵は円喬の命で三遊亭小円朝に弟子入りしてドサ回りに同行する。しかし、小円朝と喧嘩したことで一座を追い出され、無銭飲食を働き逮捕された獄中で円喬の死を知り、悲嘆に暮れる。小円朝の計らいで釈放された孝蔵は小円朝に頭を下げ、引き続き一座に戻り精進する。「古今亭円菊」と芸名を変え再出発し、真打に昇進した後は、友人である小梅・清さん夫婦の勧めで清水りんと結婚するが、所帯持ちになっても娯楽に興じ家に寄り付かず、挙句夜逃げを余儀なくされる。りんの愛想が尽き始めた矢先の1923年(大正12年)9月1日、2人は関東大震災に被災する。その際、りんを守った孝蔵はりんから第1子懐妊の報告を受けるのだった。 自身の無事を伝えるため、四三は熊本に帰省するが幾江の叱責と実次の格言から被災者に食料を届けることを思い立ち、大量の食料とスヤを連れて東京に戻る。四三は本来の韋駄天のように食料を背負い人々に届け走り回るうちに、被災者のために運動会を望むようになり、体育関係者やシマの夫・増野などの賛同のもと、避難所として解放していた神宮外苑競技場で開催される。運動会には老若男女多くの人々が参加し、富江、シマが陸上の世界へ誘い続けた人見絹枝、弥彦らも参戦して場を盛り上げる。また、競技が出来ない被災者のため孝蔵が会場で寄席を披露し人々を笑顔にする。そして四三も短距離走に参加、ゴールを過ぎてもなお走り続け、競技場を颯爽と駆け抜けていくのであった。
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