第1部 金栗四三篇・前半
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「いだてん〜東京オリムピック噺〜」の記事における「第1部 金栗四三篇・前半」の解説
物語は1959年(昭和34年)、インフラ整備が進む五輪招致目前の東京の寄席で開かれた古今亭志ん生による「オリンピック初参加にまつわる噺」で始まる。遡ること50年前の1909(明治42年)年、東京。柔道の創始者・嘉納治五郎は、「スポーツ」という言葉すら知られていない時代に日本初のオリンピック選手派遣に向けて悪戦苦闘の末、選手選考会を開催する。東京高等師範学校の学生・金栗四三がマラソンで日本人初のオリンピック出場権を勝ち取る。 熊本の山間にある農村で生まれ育った四三は、幼いころ学校まで往復12キロを走る「いだてん通学」で虚弱体質を克服し、脚力を身に着ける。中学校卒業後は海軍兵学校進学を志望するも不合格。憧れの嘉納治五郎が校長を務める東京高等師範学校へ進学する。ある日、街中を疾走する集団・天狗倶楽部に遭遇した四三は初めてマラソンを知り衝撃を受け、徒歩部に入部する。四三はオリンピックのマラソン選考会の参加募集を知り、優勝するために研究を重ねる。その中で黒坂辛作が営む「播磨屋」をたまたま通りかかり、その走りやすさから足袋を購入する。努力と研究の甲斐あって、日本では前代未聞の長距離かつ悪天候で多くの脱落者が発生するなか四三は優勝する。四三は、国の代表という重圧や旅費の自己負担などに戸惑い悩む日々を送るが、嘉納の説得、仲間たちの応援、兄・実次の尽力に助けられ、前向きに練習を重ねていく。1912年(明治45年)5月16日、四三は監督の大森兵蔵と妻の安仁子、短距離走代表の三島弥彦の3人と共に開催地であるスウェーデンのストックホルムへ出発する。100m走に臨んだ弥彦は予選敗退したものの、自己ベストを更新。400m予選では準決勝に進出するが、外国人選手との実力の差を悟り、勝利を四三に託し棄権する。長距離走に出場した四三は20位まで順位を上げていくが、猛暑により日射病を発症し、道を誤り辿り着いた民家で失神。ガイドと公使の判断で宿舎へ戻り、ゴール出来ずに終了する。 一方で、語り部である志ん生こと美濃部孝蔵の若き日々も並行して描かれる。浅草を拠点に自堕落に生きていた孝蔵は、ある日、噺家・橘家円喬の高座を目にして強く心を惹かれ、円喬の弟子となり「三遊亭朝太」の芸名を与えられる。また、1960年の志ん生の元に『志ん生の「富久」は絶品』と書かれた絵葉書を手にした青年が訪れ、五りんとして弟子入りする。
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