選手権大会へ参戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 04:55 UTC 版)
第2回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に初出場を果たした勝昭は、1回戦に韓武舘の選手と対戦し、延長の末、3対0の判定勝ちを収め、初戦を突破した。2回戦に長谷川一幸と対戦。長谷川の左上段回し蹴りで一本負けを喫する。 1971年(昭和46年)10月1日に初段を允許され、同月24日の第3回全日本選手権に参戦した。1回戦を滞りなく勝ち、2回戦で富樫宜資と対戦。跳び膝蹴りを富樫の前額部にヒットさせ、大差の判定で下した。3回戦の二宮城光、4回戦の山崎照道にそれぞれ判定勝ちして、決勝リーグ戦戦に進出した。残り2つのブロックからは大山泰彦と大石代悟が勝ちあがってきた。勝昭は泰彦を左前蹴り、大石を左中段回し蹴りでそれぞれ一本勝ちをして、初優勝を遂げた。 1972年(昭和47年)2月にスペインのカルロス皇太子とソフィア夫人が来日した。皇太子(現・国王)は空手を習っていた事から、当時、極真会館副会長の毛利松平(衆議院議員)の仲立ちで演武会が催された。同月21日に大山倍達以下、泰彦・山崎照朝・添野義二・鈴木浩平・三浦美幸・勝昭・磯部清次・大石・ハワード・コリンズなど黒帯・茶帯約20名からなるメンバーが、赤坂の迎賓館に訪問。基本稽古から各種試割りのあと、第1回全日本チャンピオンの山崎と第3回全日本チャンピオンの勝昭の模範試合が行われるなど、国賓であるスペイン皇太子夫妻の前で数々の空手の技を披露した。同年の第4回全日本選手権で勝昭は、3回戦で佐藤俊和と対戦し、再延長で3対1の判定負けをした。 1973年(昭和48年)3月18日に勝昭は参段を允許される。暫くして第4回全日本選手権に優勝し、百人組手を達成した三浦がシカゴに支部を開設するため渡米する前後に、中村忠と大山茂から、勝昭は本部道場の指導員就任を勧められた。当時の本部道場は、泰彦が前年にアラバマに渡り、指導層が薄くなっていた。中村、茂両者の再三の説得に勝昭も決心し、会社を退職。台湾の指導から戻ってきた岸信行共々、9月に正指導員となった。第5回全日本選手権は決勝リーグ戦がなくなり、完全なトーナメントとなった。勝昭は準決勝まで順調に勝ち上がった。そこで盧山初雄と対戦。本戦で跳び膝蹴りをヒットさせたが、延長戦に持ち込まれ、判定負けしてしまった。 1974年(昭和49年)5月1日に四段を允許。大山倍達が「来年の第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会では、日本選手が必ず優勝する」と宣言して、6,7名の弟子にアメリカで強化合宿をさせた。勝昭はそのメンバーに選ばれ、ニューヨークでは中村と茂のもとで、バーミングハムでは泰彦に、合計2か月間それぞれ指導を受け、稽古をした。帰国後、第6回全日本大会では4回戦では三瓶啓二を下し、準決勝では西田幸夫と対戦する事になる。勝昭にとって西田は入門時によく指導してもらい、尊敬している先輩でもあったが、勝昭は世話になった先輩に「出藍の誉れ」をあげ、恩返しをしたいという気持ちで試合に臨み、判定勝ちした。決勝戦では東孝を延長4対0で下し、2度目の全日本選手権優勝を遂げた。 1975年(昭和50年)に再び渡米し、3か月間の強化合宿に参加した。帰国して半年後の第1回世界選手権へ参戦。1回戦はインドネシアのソエシロを左前蹴り、左上段回し蹴りで攻め立て、判定勝ち。2回戦はベルギーのヘルツーディは逃げ回り、何度も場外に出てしまう。勝昭は逃げ回るヘルツーディを二段蹴りで一本勝ちした。3回戦はウルグアイのカリディアを右後ろ蹴りと跳び膝蹴りで、合わせ一本勝ち。4回戦はキュラソーのバリエントスは顔面、金的攻撃が多く、勝昭は接近してきたバリエントスを一本背負いをかけ、マットに叩きつけた後、膝でバリエントスの肩口を押し、左手で顎を押さえ、正拳を顔面に寸止めした。この瞬間は映画『地上最強のカラテ』のポスターにもなっている。その後もバリエントスは反則攻撃を続けたので、試合は中断し、バリエントスの反則負けとなった。準々決勝は佐藤俊和と対戦したが、勝昭の肘打ちが俊和の左こめかみに入り、試合が中断。1試合おいて再試合となったが、俊和は棄権した。準決勝は二宮城光と本戦で技ありを取り合い、5回の延長戦を行うほど縺れ込んだが、5対0で勝昭が判定勝ちし、決勝戦まで勝ち上がった。対戦相手は盧山で、この試合も再々延長までもつれ込み、3対2の判定で優勝。初代世界チャンピオンとなり、この試合を最後に選手権大会から引退をした。
※この「選手権大会へ参戦」の解説は、「佐藤勝昭」の解説の一部です。
「選手権大会へ参戦」を含む「佐藤勝昭」の記事については、「佐藤勝昭」の概要を参照ください。
- 選手権大会へ参戦のページへのリンク