選手権大会出場と1度目の全世界選手権制覇
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「中村誠 (空手家)」の記事における「選手権大会出場と1度目の全世界選手権制覇」の解説
1977年(昭和52年)4月に中村は、ハワイで「日本代表極真会館チームvsハワイ代表チーム」がフルコンタクト空手の対抗戦に参戦した。日本代表には中村の他には東孝が参加しており、千葉真一が空手の真剣勝負をする事でも話題となった対抗戦であった。中村はこの場で対戦相手をパンチで2メートルほど飛ばした。大山倍達はこの戦いぶりに大いに機嫌を良くして、帰国後周囲に「中村がパンチで相手を5メートル吹っ飛ばした」と語っていた。同年秋に開催された第9回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に初出場し、3位入賞を果たした。1978年(昭和53年)第10回全日本選手権でも3位入賞をした。しかし、大山倍達は中村に期待していたぶん、3位に不満があった。大山倍達は何かが足りないと思い、中村を、当時最高師範だったアメリカ在住の大山茂のもとへ武者修行に出した。茂の下では竹刀で叩かれながら指導を受け、この頃に突きから蹴り、蹴りから突きへのコンビネーションを身につけた。 1979年(昭和54年)帰国後、5月に開催された第11回全日本選手権において、準々決勝で川畑幸一(同大会第7位)、準決勝で東孝(同大会第3位)、決勝で三瓶啓二を破り、念願の初優勝を果たすと同時に、同年秋に開催される第2回オープントーナメント全世界空手道選手権大会への日本代表権を勝ち取った。同年8月26日に中村誠は13時から、本部道場で百人組手に挑戦。35人で断念した。しかし、この百人組手は梶原一騎プロデュースの映画『四角いジャングル』の撮影でセッティングされたもので、中村本人も直前に「挑戦しなさい」と大山の命があって、挑んだ百人組手であった。 秋に全世界選手権が開催され、中村は予定通りエントリーし、3回戦のハンス・ドルフ・ラングレンに苦戦した以外は順調に勝ち進み、準々決勝で川畑(同大会第8位)、準決勝で東(同大会第4位)、決勝で三瓶を破り、世界王者となった。この頃から、「極真の重戦車」の名を不動のものとした。
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