運航開始から破綻まで
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1998年12月20日、新千歳空港 - 羽田空港間に第1便が就航した。前出の大手3社の普通運賃(当時は片道約2万5千円、後に割引運賃の拡充を理由に3万5千円台まで値上げしている)の半額を目指していたが、事業基盤が弱く、大手の6 - 7割程度の運賃でスタートした。初期投資を抑えるため機材はリースで調達し、整備や羽田空港でのグランドハンドリング業務はJALに委託。航空券(搭乗券)は、日本国内では1980年代前半まで使われていたシール貼付によるアナログな方法を採用し、ボーディング・ブリッジは不使用(施設利用料の安い駐機場までランプバスで移動し、タラップ車で搭乗・降機)、茶菓・ドリンクやオーディオ放送などの機内サービスの殆どを省くなど、低価格運賃実現のため徹底したコスト削減を図った。 就航直後はテレビの情報番組や新聞で報道され、その話題性から搭乗率で一時優位に立ったが、翌1999年春に入ると早くも大手3社が事前購入割引運賃で同程度の価格まで引き下げて対抗した。その先陣を切ったのが、皮肉にもADOへ人材や羽田空港の設備・整備などを提供していたJALであった。 就航当初の座席管理システム(CRS)は簡易的なもので、受付チャネルも搭乗者が予約センターへ電話して予約を行った上で空港カウンターで決済・搭乗券を受け取るか、札幌本社と東京・浜松町の事務所か空港のカウンターへ直接赴いて手続きする手段しかないなど脆弱なものであった。販売提携する旅行代理店はJTBの直営店舗と、北海道旅客鉄道(JR北海道)の旅行窓口(ツインクルプラザ・JR北海道プラザ含む)、東日本旅客鉄道(JR東日本)のびゅうプラザのみであった。 さらに、JTBなどの大手旅行会社が販売するパッケージツアーにはほぼ組み込まれず、個人の自由旅行・帰省や出張用途の利用客に限られたほか、運賃の安さに惹かれて予約窓口に殺到した大量の電話を捌ききれず機会損失が発生したこと、マイレージサービスの非実施でリピーターの獲得が難しかったこと、運航本数の少なさなどマーケティング面での様々な要因が影響し、1999年の搭乗率は40 - 60 %程度と低迷した。就航前の機体リース料やJALに支払っていた整備委託費などのコスト負担が解消しきれないなど、なかなか軌道に乗せることができなかった。 2000年7月にカリスマ的存在だった浜田が急死して以降、運輸省(政府会計)へ支払う空港着陸料の滞納、給与の遅配など深刻な経営状況が明るみに出て、このままでは2001年初にも債務超過へ陥ることが避けられない事態となった。そのため、後任の社長候補であった当時の日本アジア航空(JAA)役員が社長就任を固辞したため、そのポストに北海道庁が幹部職員を送り込んだほか、同年秋には北海道が巨額の公的資金(税金)の投入により追加の融資・出資に応じ、北海道電力など道内大手企業も出資に応じた。 しかし、立ち上げ当初に主力となったJALからの出向・転籍組が去り、経営部門の役員と従業員が運輸省や中央政界とのパイプを持たない航空業界未経験者の面々で固まったため、経営はさらに迷走。新千歳 - 羽田線はADOの就航後幾度となく運賃が値上げされたうえ、新千歳以外の道内路線就航もなかったために道内各所の求心力が低下した。2000年12月には、1999年4月以降完全禁煙化されていた日本の航空会社で唯一、喫煙席を機内後部に設定し集客に奔走するという奇策に出たが、わずか2ヶ月弱の2001年1月末には廃止するなど迷走を深めていった。 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロにより、航空機利用を控える世界的な航空不況が顕在化するとADOもその影響を大きく受け、乗客減と航空保険料の大幅値上げにより資金繰りが逼迫。北海道庁へ求めた追加融資が北海道議会に拒否され、航空機リース会社とのリース料減額交渉の不調も重なり、2002年6月に債務超過に陥ったことから自力再建を断念し、民事再生手続を開始した。
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