運行から廃止までとその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/16 21:24 UTC 版)
「銚子遊覧鉄道」の記事における「運行から廃止までとその後」の解説
別記の収支にあるように、開業以来3年後も赤字は累積、補助金の補填で欠損を補っていたが、初年度から鉄道の経営は難局を迎える。高神村民(現在の銚子市の犬吠埼周辺)を中心とする地元住民等の激しい反対運動が展開されたが、出資者自体が鉄道事業の運営にあかるくなく、また戦時下にあって国内における主要幹線以外の公共交通機関を維持することが資材調達と資金繰りの面から困難と判断され、経営判断によって1917年11月3日に会社株主総会で会社解散を決議、1917年の11月20日、廃止許可が認可されたその日に運行を終了している。 公式には1917年の11月30日と記されている文献もあるが、1917年11月22日附の東京日日新聞房総版 に 「銚子遊覧鉄道は維持困難を理由にいよいよ解散と決定し、廿一日から運転廃止となるので袂別の乗車をなすべく廿日午後二時廿分銚子駅発に乗り込む。列車は満員であるが、外来客はほとんど、いずれも高神・銚子の村町で、是等の人々の口からは言い合したように〝これが乗り終いでしょう・明日からは不便になりますな〟の言葉が交わされる。」 との手記があり、やはり1917年11月20日の犬吠発15時23分の列車が最終運行であると判断できる。 鉄鋼材は売却され、道床跡の土地は同社系列の旅館暁鶏館(現・ぎょうけい館)自動車部が所有するバス専用道路となった。 暁鶏館は1916年6月銚子遊覧鉄道の傘下に入った旅館業で、当時フォード社製の乗合自動車(バス)をこの専用道路に走らせたが、運賃が片道30銭と高価でもあったために定着しなかった。なお、日本最初の自動車専用道路は1918年7月に開通した函館 - 湯川村とされているので、この試みはかなり斬新だったと言える。 会社は、土地と施設の売収益による損益の回収を試み、衆議院議員であり同社の重役でもあった吉植庄一郎等を中心に国鉄総武本線の延長計画の推進を働きかけたが実現せず、6年後の1923年7月、新規に設立された銚子鉄道として再び鉄道線として外川まで延伸開通し今日に至っている。
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