連龍の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 05:58 UTC 版)
夫の飯尾連龍は、徳川家康への内通を今川氏真に疑われて殺された。連龍の死に関しては諸説存在する。 永禄3年(1560年)義元死後、連龍は今川氏に背き、徳川氏に心を寄せた。永禄7年(1564年)に連龍は病と称して曳馬城に籠った為、氏真は新野親矩に城を攻めさせたが城中は堅固で親矩は討死にした。その後、永禄8年(1565年)12月に連龍も駿河で討たれ討死にした。(『遠江』) 連龍が今川氏に背き家康に内通し、永禄7年(1564年)に氏真一宮に向かうも利あらずして退いた。これが原因で氏真は駿府において逆心を糺明。永禄8年(1565年)12月20日には氏真は連龍を切腹させた。この時連龍は己が屋に立て籠もり兵士を所々に出して大いに力戦、打手の大将の新野親矩をはじめとして多くの兵が戦死。その後連龍は自殺した(『武家事紀』)。 『国別城郭』には上記と異なる事が記載されており、永禄7年(1564年)に連龍は岡崎に内通して今川に背いた。これによって氏真は大いに怒り永禄7年(1564年)12月20日に連龍を駿州において自害させたとある。 今川氏真が織田信長への弔い合戦をしかけ、曳馬城の城主であった井伊直平は氏真と共に出陣し白須賀で陣を布いていたが、南からの強風が原因で軍勢から出火し白須賀のあちこちの集落が焼き払われた。その件で軍中では直平が井伊直親の殺害を氏真が命じたことの件で怨んでいたので、白須賀を焼いて軍の最後尾に被害を与えたのではないかという評価がなされたため、直平を糾明しようという意見が軍議のなかで出された。それに一同も同意。氏真もその意見に賛成した。直平は火事に関して不慮の事故だと説明するも、氏真は過失の埋め合わせとして、直平に今川氏に背き武田方に従った遠州八城山城城主の天野左衛門尉の鎮圧を命じた。直平が出陣の支度をしていると、お田鶴の方、天野左衛門尉、直平の家老だった天野左衛門尉の縁者は連龍へ反逆を勧め、共に直平に反逆した。永禄6年(1563年)9月18日に直平が出陣する際、お田鶴の方が直平に茶を勧めるが、その茶には毒が入っており、直平の先鋒隊が遠江国領の蔵中瀬村まで達した時、有玉旗屋の宿にて落馬し直平は死亡した。しかし『井伊家伝記』の別の章には連龍が直平に毒薬を進め直平はその毒薬が原因で死亡したとも記されている。直平の死は謎が多く、意識不明のまま川名に運ばれ、川名の鎧橋で落馬して死んだ、敵の急襲を受け討死したなど、諸説存在する。この時、従者の大石作左衛門が直平の遺体を故郷の川名に馬で運ぶと殉死した。 その後、直平の家臣全員が曳馬城へ引き返した所に、連龍は味方の家臣を従えて曳馬城の大手門の警護を固め籠城した。この時直平の家来も毒死。生き残った者の多くは連龍達の味方になった。その後も連龍は氏真にも反逆を企み従わず、永禄11年(1568年)に連龍は曳馬城の城主となるが、後に氏真は松居郷八郎という別懇の武士を以って連龍に和談を申し入れ酒宴を催すも、連龍は辰之助と共に氏真によって駿府で切腹させられた。(『井伊家伝記』) 連龍が家康に内通し、病と称して曳馬城に引き返してる間、新井白須賀邊の駅舎を放火したという疑いに今川氏真は大いに憤り、その真偽を問いただす為に三千人の兵を曳馬城へ差し向け、有無を言わさずにいきなり攻撃するも、連龍は防戦し撃退した。氏真はますます怒り、大勢を付き添え囲み昼も夜も攻めたが城は落ちず、連龍は敵陣に対して矢文で起請文を出し、今川方の寄せ手はそれを受け取り引き返した。その後氏真に罪を許された連龍は礼謝の為に駿府に来たが氏真に謀殺された。(『改正三河後風土記』) 連龍が織田信長と徳川家康に内通していたことを知った氏真は曳馬城を攻め込むも落とせず、後に氏真の調略を以って和談するも、連龍は永禄8年(1565年)12月に駿府の二の丸の飯尾屋敷に押し詰められ謀殺された。(『浜松御在城記』) 『皇朝金鑑』『民政史稿.風尚民俗篇』では永禄10年(1567年)に連龍が氏真の猜疑によって殺された(『修身事蹟:婦女必読』では、連龍は氏真と戦い討死とも)と記されている。 『武徳編年集成』では上記の史料とは異なり、連龍が家康へ内通している疑いを何者かに風説されたため、永禄8年(1565年)12月20日に氏真は連龍を駿府城内へ召し寄せ兵士100名に襲わせた。連龍の兵も2、30名の兵で防戦したので、氏真の兵も多く戦死、この時お田鶴の方が無双の強力でしばしば出て奮戦した。これを同史料では「氏真渠を駿府に召寄軍士百騎計を以て其屋敷を囲み攻て鏖になす于時飯尾が士二三十騎死戦をなすゆへ寄手多く討る、致実が室無双強力屢奮ひ戦ふ」と記している。この出来事を『駿府の小路の戦い』といった。八切止夫の『秘聞 柳生石舟斎』によると「『武徳編年集成』には何者かが連龍は今川の裏切り者であるという風評をしきりに撒き散らしたので、氏真は連龍を駿府城内へ呼び、二の丸にある飯尾の館で遠州から来た連龍夫妻が一服していたところを氏真は兵士100名に襲わせた、この時お田鶴の方は手に滑り止めの粉白粉をつけ薙刀を奮って10名余りの今川方の侍を切り伏せたが、衆寡敵せず連龍と共に首を取られ、二の丸大手門に晒された。」と上記と異なることが記されている。
※この「連龍の死」の解説は、「お田鶴の方」の解説の一部です。
「連龍の死」を含む「お田鶴の方」の記事については、「お田鶴の方」の概要を参照ください。
- 連龍の死のページへのリンク