連続する水害と治水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 04:50 UTC 版)
戦後、全国各地で水害が多発していたが、紀の川でも例外ではなかった。紀の川では1950年(昭和25年)9月3日のジェーン台風による水害(死傷者1,894名、家屋全半壊13,820戸、床上・床下浸水11,612戸)を皮切りに1953年(昭和28年)まで毎年大水害が発生した。特に1953年(昭和28年)7月の紀州大水害では紀の川のみならず有田川・日高川・日置川・古座川など県内全ての河川が氾濫、和歌山県は壊滅的な被害を生じた。 戦争で中断していた『紀の川改修計画』は戦後再開し、1949年(昭和24年)に完了していた。更に1950年(昭和25年)には橋本市までの本川と貴志川の合流点から6.0km区間までを改修区間に編入した。ところが紀州大水害で計画を上回る洪水となったため1954年(昭和29年)には貴志川の計画水位を改訂した『第一次改訂紀の川改修計画』が策定された。この際紀の川本川の計画洪水流量も橋本市で6,000トン/秒とする方向で調整を図っていたところ、1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風が紀の川流域にかつてない大洪水をもたらした。上流を中心に豪雨が襲い、吉野郡川上村入之波(しおのは)では26日夜7時に時間雨量が118mmという猛烈な雨となり、この日一日だけで650mmの記録的な雨量となった(なお、現在に至るまで紀の川流域での年間最多降水量・最多日降水量・最多一時間降水量記録はこの時の豪雨によるものであり、近畿地方整備局管内の年間最多降水量記録もこの年の入之波における記録である)。このような激烈な豪雨により紀の川の洪水流量は計画を上回る7,000トン/秒を記録し奈良県・和歌山県で浸水被害が拡大。特に奈良県は1958年(昭和33年)の台風17号の被害が復旧する暇なく水害に遭い、歳入を上回る被害額が算出され財政危機に陥る状況となった。この為国会において当時の奥田良三奈良県知事が『紀の川に多目的ダムを建設して欲しい』と第33回国会災害地対策特別委員会第4号(昭和34年11月5日)の参考人質疑で答弁する切実な状況であった。 伊勢湾台風の翌年、1960年(昭和35年)に「紀の川改修計画」は全面的に改訂され、「紀の川修正総体計画」が策定された。この際に橋本市におけるピーク時の洪水流量を7,100トン/秒とし、この中で2,600トン/秒を紀の川本川に多目的ダムを建設する事でカットする事とした。こうして建設省は『紀の川総合開発事業』として吉野郡川上村大滝地点に堤高100.0m、総貯水容量84,000,000トンの大規模特定多目的ダムを計画した。これが大滝ダムであるが、当時上流部に『十津川・紀の川総合開発事業』として農林省が大迫ダムを建設しており、この上更にダムによる犠牲を蒙る事に399戸の水没予定住民は猛烈に反発。猛烈なダム反対運動を展開し、事業は完全に膠着化した。当時東日本では八ッ場ダム(吾妻川)に対する強烈な反対運動が展開されており、計画が全く進展しないダム事業の代名詞として『東の八ッ場、西の大滝』とまで形容された。 1965年(昭和40年)4月に紀の川水系は新河川法の施行により一級水系に指定され、これ以降五條市から河口までの62.4km区間の紀の川本川と『紀の川改修計画』の指定区間である貴志川(本川合流点から6.0kmまで)が建設省直轄管理区間となった。これに伴い「紀の川工事実施基本計画」が定められ、1974年(昭和49年)の改訂を経て現在は和歌山市船戸地点におけるピーク時洪水流量を16,000トン/秒とする改修計画となっている。「紀の川改修計画」時のピーク時洪水流量から3倍強の流量となっているが、それだけ治水の難しさを物語っている。2003年(平成15年)には大滝ダムと紀の川大堰の本体が完成し、暫定的な運用が図られている。現在は2005年(平成17年)11月18日に策定された「紀の川水系河川整備計画」に基づき、環境保護も重視した河川整備が推進されているが、大滝ダム・紀の川大堰は紀の川の治水・利水の根幹として重要な位置を占めている。
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