連続する危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 06:31 UTC 版)
「ロシア史 (1991年-現在)」の記事における「連続する危機」の解説
エフゲニー・プリマコフは永くその地位に留まらなかった。エリツィンはプリマコフが強さと人気を得ることを怪しみ僅か8か月後の1999年5月に解任した。エリツィンはその際代わりに嘗てロシア連邦保安庁(ソ連国家保安委員会の後身)の長官で後に内務大臣になるセルゲイ・ステパーシンを任命した。ドゥーマは大差で最初の投票で任命を承認した。 ステパーシンの在職期間は、プリマコフの任期より短かった。1999年8月、エリツィンは再び急に政権を解任し新政権の長にウラジーミル・プーチンを候補として指名した。ステパーシンのようにプーチンには外国の情報機関に勤め後にFSBの長官を務めた経験のある秘密警察に背景があった。エリツィンはプーチンを後継者と見ていることを表明するまでになった。ドゥーマは僅差でプーチンを承認した。 任命当時プーチンは相対的に無名の政治家であったが、主として第二次チェチェン紛争で信任された政権の代表として急速に世論とエリツィンの尊敬の両方を作り上げた。エリツィンがプーチンを首相候補として任命して間もなくチェチェン軍はチェチェン共和国近くのロシアの自治共和国ダゲスタン共和国でロシア軍を引き付けた(英語版)。翌月数百人がロシア当局がチェチェン反乱軍の仕業と考える爆破事件モスクワなどの都市のロシア高層アパート連続爆破事件で死んだ。対してロシア軍は第二次チェチェン紛争を開始しながら1999年9月後半にチェチェン共和国に侵入した。テロリストの爆破事件に怒る当時のロシアの世論は、大いに戦争を支持した。この支持はチェチェン共和国で決定的な行動をとったプーチンに対する増大する人気に置き換わった。 12月の1999年ロシア下院選挙でプーチンに近い政治勢力の成功(英語版)後、エリツィンは明らかに任期満了の6か月前の12月31日に大統領職を辞任できるとプーチンに十分な確証を得た。このことはプーチンを大統領代行にし、2000年3月26日に行われたロシア大統領選挙の最有力候補と自身を位置付ける十分な機会をプーチンに与えた。チェチェン紛争は選挙戦に顕著に影響した。2000年2月、ロシア軍はチェチェン共和国の首都グロズヌイに侵攻し、投票日の1週間前に勝利を主張しながらプーチンは戦闘機でチェチェンに飛んだ。
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