通船工事事業
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「中野半左衛門 (景郷)」の記事における「通船工事事業」の解説
木屋川(豊浦川)の通船工事半左衛門は青年期(19歳)という若かりし頃から、陸上での輸送機関では、人員や馬、馬車での輸送量の限界、橋梁の破損、崩落による遅延などがあり物資の運搬には限界があると考え造船通船事業の大志を抱いていた。特に、山口県長門市を源流とし下関市の周防灘(大海湾)に注ぐ木屋川(旧名,豊浦川、別名,吉田川)の大規模造船通船事業を志したが、当時の制度や技術に課題が多く、造船通船事業構想を中断した。 その後、大阪に渡るなど紆余曲折の人生を歩んだが、半左衛門38歳、天保12年(1841年)4月の日記に「 豊浦川開さくの思想を発す。信蔵(半左衛門の別名)一生の大事業なり 」とある。それから半左衛門は工事の全てに私財を投じ51歳にして、木屋川の通商事業を完成させた(安政元年11月)。当時としては画期的なこの一大事業により一度に大量の物資が交流ができるようになり半左衛門は、その功績を基に当該河川を有料とし萩藩の通船支配権を獲得した。 この一大事業に対して各界から多数の賛辞、賛物がおくられている。代表するものとして、既知の友人であり萩藩の重臣である宍戸真澂は、以下の祝辞の和歌を認めており、京都の小田海僊の師弟である大庭学僊は、絵巻物「豊浦河通船図」をお祝いに描き染めた。なお、明治維新の獅子である宍戸真澂(甲子殉難十一烈士)は、禁門の変に失敗するまで、半左衛門が援護した。 『此郷の活関にせむとおもひおこしつゝ年を経し 川船のかよひ始むる時 里人に真意を示すとて』 — 宍戸真澂 「 前大津宰判、宰判 」 萩藩の重臣である宍戸真澂と中野半左衛門(景郷)との関係は半左衛門39歳の頃から真澂の藩に係る資料の作成に協力していたことから(またどちらも文化元年(1804年)生まれの同年齢であったこともあり)、親密な関係となっていく。 天保14年(1843年)4月14日の半左衛門日記によれば「 風土記編集の為 宍戸九郎藤来る 信蔵事務掛たり 」とある。前大津宰判は宍戸真澂が編集したことで有名であるが、日記によれば、宍戸真澂が中野家の邸宅を訪れ半左衛門が大いに手伝ったことが分かる。 佐波川の通船工事半左衛門は、安政6年(1859年)12月には周防山地を源流とし山口県防府市の周防灘(大海湾)に注ぎ、現在一級河川として知られる佐波川(別名、鯖川)の通船工事を完成させた。 その他の通船工事一級河川佐波川水系島地川の通船工事。 下関市内では木屋川のに次ぐ2番目の規模、山口北部でも阿武川に次いで2番目の規模を擁する粟野川の上流の通船工事。 山口県美祢市と長門市との境に位置する大ヶ峠付近を源流とし南下しながら、山口県山陽小野田市で周防灘に注ぐ厚狭川の通船工事。 以上その他の通船事業により、物資運搬の大量化を可能とし、同時に運搬距離が短く速度が早まり長州藩における殖産事業に係る近代化の一翼を担った。半左衛門が通船事業を行なった河川では、川船や筏の通行が活発となり、物資の調達が豊かになるにとどまらず、長州藩内の人々及び来藩する人々の往来をも活発にした。この赤間関街道(北は旧萩藩周辺、南は旧長府藩周辺の交通の要所)を中心とする交通の刷新により明治維新及び文明開化のつとむる開化、引いては長州勢を主軸とした日本の近代化に資した。 『特に吉田川の上流に堤防を修築東西南北各数里間に亘る工事最も堅牢に(中略)利を蒙る(中略)地方民其の功績を賞揚す』 — 国立国会図書館デジタルコレクション『人事興信録 第10版 下巻』ナ68頁
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