通薫の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 14:27 UTC 版)
さて通薫は永禄2年(1559年)、海を渡り浅口郡大島(大嶋)郷西部(現在の笠岡市大島中~浅口市寄島町)の青佐山城を修築し入城した。当時このあたりは大内氏の築いた水軍砦の趾を、毛利氏に従う村上氏が支配していたものと思われる。 通薫は細川家旧臣たち(赤沢・大内・安部・秋田・河田・藤沢・今城・大島氏ら)に迎えられると、山麓に屋形を設け、周りに家臣を配置した。また城の鬼門の守りには「八幡宮(大浦神社)」を遷座勧請せしめ、伝統文化や産業の振興に力を入れた施策を行ったようである。 ただ周囲の大半は同盟相手であり、この頃は文字通り客将の扱いであったと思われる。毛利氏が通董を援助した理由の一つに、通董が細川晴国の子であり、京兆家の細川高国・稙国とは血縁上近いことがあるとの説がある。つまり通董は京兆家を継承し管領を伺える人物であったため、毛利家としては中央政権対策上重要な存在であったことが示唆される。(通董を管領に戴き、輝元が管領代として政権を握る構想もあったと伝わる。)また通董としても、戦国の世に独力では川之江の維持は不可能であるとの判断も働いた可能性もあり、地続きの後援者を望める備中を目指したのではないかとも思われる。(近隣である備中守護家の所領であった新居郡は、すでに守護代石川氏が実力者となっていた。さらには三好氏や大西氏らの圧迫もあったのではないかと思われる。)結果論だが元亀元年(1570年)頃には、宇摩郡などは同じく毛利氏の同盟者となった河野氏に譲渡(併呑)されている。 やがて次第に庄氏をしのぐ勢いとなった三村氏と、宇喜多直家(浦上氏)との対立が深まり、永禄6年(1563年)頃に戦が始まると、備前との対峙が懸案となったようである。毛利元就は一族の兼重氏に対し、宇喜多氏の攻撃にさらされる「連嶋」を支援するために、能島村上氏の動員を命じている。元就の言う「連嶋」とは通董を差しており、守備方面を重ねることでこう呼んだのであろうか。(当時浅口郡の東端の連嶋(連島)付近は文字通り島であり、それを考慮し地図を眺めると、同じく藤戸が本州との海峡であった児島、また小豆島、あるいは四国へは、海路では総じて隣地の感覚であるのも頷ける。)永禄7年(1564年)には、宇喜多勢との備前竜の口城合戦に従軍している。永禄9年(1566年)、大島郷中部の六条院(現在の浅口市南部)に竜王山城を創築し、青佐山城より移って本城とした。山麓の「円珠院」(旧寺跡)近くには通董が寄進したという円珠院石造大宝塔一基が残されている。 また、永禄7年(1564年)頃に三好氏と対立した西讃の有力領主であった香川之景が自己の勢力圏にあった備中国の神島に追われていた。毛利氏では三好氏との対抗上、之景を庇護して讃岐への復帰を働きかけ、通董も之景と連携している。
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