通船堀建設の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 05:16 UTC 版)
「見沼通船」を参照 1727年(享保12年)に開削された見沼代用水は、新田の開発のため灌漑用の溜池であった見沼溜井の代わりとして利根川から引かれた用水路である。用水路は、水田等の灌漑目的であったが、利根川と荒川の間を流れており、年貢米などを江戸に運ぶ水路としても有用であった。1731年(享保16年)に、新田の打ち出しに貢献があった鈴木家および高田家に通船差配権が与えられた。 しかし、用水路は江戸まで直接つながっていないため、江戸市中を流れていた隅田川に注ぐ芝川と代用水とを結ぶ必要性があった。一方、2本の用水路は芝川より数1キロメートル程度しか離れていないが、標高で約3メートルほど高い位置を流れており、直接運河を掘っても水流のため船を通すことが困難であった。このため、閘門式の運河が必要であった。通船堀は、見沼代用水の建設にあたった勘定吟味役の井沢弥惣兵衛為永が1731年(享保16年)に普請を指揮して行われた。
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