赤ちゃんあっせん事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 07:53 UTC 版)
産婦人科医として中絶手術をする中で、次第に自身の行為に葛藤を抱き始める。たとえ望まない妊娠や経済的に困難な状況を抱えた中絶であってたとしても赤ちゃんにも生きる権利があるのではないかと菊田は考えるようになった。その問題を解決し胎児の生命を救う為に、菊田は中絶手術を求める女性を説得して思いとどまらせる一方、地元紙に養親を求める広告を掲載し、生まれた赤ちゃんを子宝に恵まれない夫婦に無報酬であっせんするなどした。だが当時は現在の特別養子縁組制度に相当する法律が日本には無かったため、その際にはやむを得ず偽の出生証明書を作成して引き取り手の実子とした。それは実親の戸籍に出生の記載が残らないよう、また養子であるとの記載が戸籍に残らないよう、そして養親が実子のように養子を養育できるように配慮したためだった。 1973年4月のある日、広告を見た毎日新聞の記者が興味を持ち菊田医師に取材をさせてもらえないかと申し込んできた。当初菊田は取材を受けるか悩んだが、東北の一医師である自分にできることは限られていること、一方で日本中の赤ちゃんを救うためには明らかに欧米の様な養子縁組に関する法律を国会で制定する必要があり、その為にはこの問題を社会的な問題として提起する必要があることから全国版に記事を掲載してもらうことを条件に取材に応じ、10年以上前から中絶を考えている女性を説得してきたこと、現時点で100人をこえる子供をあっせんしており、その際に実子として育てられるよう虚偽の出生証明書を作成していること、取材に応じたのは現行の法律の不備を指摘して養子に関する法律を制定するよう働きかけるためであることなどを全て記者に話した。 この内容は翌日の毎日新聞の1面で報じられ、他のマスコミも次々と報じ、法とは何か、医療者は道徳的問題があっても常に法を遵守するべきなのか、法律に触れても赤ちゃんの生命を救ったことの是非、そもそも現行の法律に問題があるのではないのかといった議論を巻き起こし、日本中で一大センセーションとなった。 数日後に参議院に菊田は呼ばれ、赤ちゃん斡旋について話すことになった。菊田は素直に法律上の問題があることを認めつつ、赤ちゃんの命を守るための法の制定を国会議員に訴えた。当時の国政政党もおおむね法律上の問題はあるものの菊田医師の主張は理解できるといった解釈を示した。 世間の反応もおおむね良好で、当時の新聞には「母親の命と子供の命、両方を考えた結果」「違法だが勇気ある行為」と賛同する投書や意見が相次いだ。作家の遠藤周作も菊田医師の勇気をたたえ、法を改正すべきだといったコメントを寄せた。 一方で同業者である産婦人科医からは必ずしも評価はされなかった。1973年に中部地方の産婦人科医会に医師法違反で告発された。所属関係学会を除名され、優生保護法指定医を剥奪された。6ヶ月の医療停止の行政処分も受ける。不服の訴えは最高裁で敗訴。しかし、この事件を契機に、法律に違反しながらも100名以上の嬰児の命を守ったことへの賛同の声が巻き起こり、実子として養子を育てたいと考える養親や、社会的養護の下に置かれる子どもが社会的に認知され、要望に応える法的制度が必要だという機運が高まった。 実は以前にも特別養子縁組に関する法律の制定を検討されてはいたが立法化はされず、そのまま10年以上も塩付けにされており、結果的に菊田事件によりその議論が再燃することになった。菊田が国会に呼ばれた1973年(昭和48年)、超党派の国会議員による「赤ちゃんを守る国会議員懇親会」が結成され、つづいて学者を中心にした「実子特例法推進委員会」が結成された。さらに菊田医師の主張に感銘を受けた俳優のコロムビア・トップが実子特例法制定を公約に掲げて第10回参議院議員通常選挙において全国区で当選した。「実子特例法推進委員会」は法律制定に向け署名活動も開始、国内外で大きく報道された。やがて秋田県や長野県、札幌市や千葉市などの議会で早期の法案策定を求める決議が出され可決した。 1982年9月に法務省の法制審議会が制度の見直しを開始、1987年9月に養子を戸籍に実子と同様に記載するよう配慮した特別養子縁組制度の法案が可決した。満場一致であった。また人工妊娠中絶の法律規定も変更された。菊田医師は法案が成立した時には大喜びをしていたという。 一連の活動は世界で認められ、国連の国際生命尊重会議(東京大会・1991年4月25日~4月27日)で第2回の「世界生命賞」を受賞した(第1回オスロ大会ではマザー・テレサが受賞)。その4ヶ月後の1991年8月、癌により死去した。
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