美術界へのアール・ブリュットの導入
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「ジャン・デュビュッフェ」の記事における「美術界へのアール・ブリュットの導入」の解説
1923年には、デュビュッフェはハイデルベルク大学附属病院のプリンツホルンの著書『精神病者の芸術性』を入手しており、フランスとスイスの精神病院を訪ねて作品を探した。そうして、アドルフ・ヴェルフリ(英語版)の遺作、アロイーズ・コルバス、ルイ・ステーに出会った。1945年には、アール・ブリュット(生の芸術)と呼んだ、強迫的幻視者や精神障害者の作品には、精神の深淵の衝動が生のままでむき出しに表出されており、ルネッサンス以降の美しい芸術(Beaux-Arts)に対して反文化的だとみなしていた。 1945年7月には、スイスのベルン近郊の精神病院にある小美術館を訪れ、アドルフ・ヴェルフリやハイリンヒ・アントン・ミュラー(英語版)の作品にも出会い感動し、この頃は作品を写真に納めることを目的としていた。ローザンヌではルイ・ステーの作品に出会い、ジュネーヴでも患者の作品を集めた小美術館を案内してもらい、バーゼルでは刑務所に寄った。旅先から、8月28日付の画家ルネ・オーベルジョノワへの手紙で「アール・ブリュット」という言葉をはじめて記し、旅から帰った9月にはフランス南部のロデーズにある精神病院を訪れ、1945年末には画廊経営者のドルーアンを連れて2度目のスイス探訪を実現し、自らのために独学で作品を生み出す多くの者が存在することをジャンは思い知った。紹介者を通し営利目的もないジャンは好意的に捉えられ、収集の目的はなかったジャンの元には多くの作品が寄贈されコレクションとなっていく。人間の持つ芸術衝動について大勢に知ってもらいたいと思っていたところドルーアンから画廊の地下の提供があり、ここを「生の芸術センター」(フォワイエ・ダール・ブリュット)とし、1947年11月15日に開館した。最初の企画展は、作者も時代も不明の溶岩や玄武岩の彫像であった。精神障害者の芸術が焦点となる以前は、民衆的石像や児童画、民族の仮面や落書きなども並べられたのである。1948年にはセンターを永続的な研究所としようと、コレクションの保管先をユニヴェルシテ通りへ移し、「無償と非営利の団体」であるアール・ブリュット協会を設立した。そうして1951年には100人の作者による1200点のコレクションが出来上がっていた。しかし、資金不足などにより協会は解散する。 デュビュッフェのコレクションは、1967年にパリ装飾美術館にて初めて展示され公的に認知された。ジャンにとってゆかりのある美術館で、4月から6月まで「アール・ブリュット選抜展」が開催されたのである。ジャンは蒐集したコレクションの永続的な管理を引き受ける場所を探しはじめ、スイスのローザンヌ市長と契約を交わし、1976年2月にベルジュール通りにアール・ブリュット・コレクションが開設された。 洗練された芸術に対する「生の芸術」は、芸術的なものとみなされるものの認識を再構築しており、美術界という制度の中で規範に従った美術作品以外のものを含めて美術の種類として理解するということであり、1960年代以降、そうした領域の芸術への関心は広まってきた。
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