経歴と逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/06/13 09:41 UTC 版)
若くして道学を好み、仲間を集めて山東の長白山や泰山に隠れ住み、道教の修行法を学んだ。さらに鄒魯の間を遊歴して、儒学を習った。道学に通じた晋陽の某氏に出会って師事し、道家の符水・呪禁・陰陽暦数・天文・薬性などを学んだ。大方を学び終えると、道栄の師は実は恒岳の仙人であると正体を明かした。師は天官に流謫されていたところ、満期が来たので帰らねばならないと説明し、道栄に汾水まで送るよう命じた。汾水に到着すると、川は氾濫して橋が壊れており、船で渡るのも困難であった。師が水に臨んで禹歩し、一枚の符を水中に投げこむと、川の流れは止まってしまった。ほどなく水は天に届くほど高く積み重なった。師は沙石の上をゆっくりと歩いて水を渡っていった。ひとり道栄はこのように見たのであるが、そばにいた人はみな師の体が浮かんで天に昇っていったように見えたので、驚倒しきりであった。道栄は山東に帰ると、琅邪山に隠れ住み、五穀を断ち、松かさや茯苓を食して、長生の秘を求めた。ときに北斉の文宣帝が人を派遣して道栄を晋陽に召し出そうと追い立てた。道栄は追跡から逃れて、遼陽山中に入った。そこで猛獣に出会い、追跡していた人も恐怖に逃げ出してしまった。道栄は杖で地を画し、火坑を作ると、猛獣は逃走した。北斉が滅ぶと、道栄は北周に帰順した。隋初に死去した。
※この「経歴と逸話」の解説は、「由吾道栄」の解説の一部です。
「経歴と逸話」を含む「由吾道栄」の記事については、「由吾道栄」の概要を参照ください。
経歴と逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 16:00 UTC 版)
出身は知られていない。道術をもって東魏の高歓に仕えた。543年(武定元年)、邙山の戦いが起こった。ときに東魏軍の旗幟はすべて赤であり、西魏軍はすべて黒であった。そこで懐文は五行相剋の説に基づいて、「赤は火色で、黒は水色です。水は火を滅ぼすことができるので、赤をもって黒に対するのはよろしくありません。土は水に勝つので、黄に改めるべきです」と高歓に勧めた。そこで高歓は旗幟を「河陽幡」と呼ばれる赭黄のものに改めた。 また懐文は宿鉄刀を造った。柔らかい地金を重ねて焼き入れし、数度繰り返して硬くした。軟鉄を刀背にして、家畜の尿を浴びせ、家畜の脂で焼きを入れた。完成した刀は鎧の重ね30枚を斬ったといわれる。 また懐文は算術を得意とし、晋陽の館で棗の樹の実の数を概算してみせたことがあった。 懐文は官にあっては西河郡太守をつとめ、信州刺史に上った。また『魏書』十志の編纂にあたって、修史に名を連ねた。
※この「経歴と逸話」の解説は、「綦毋懐文」の解説の一部です。
「経歴と逸話」を含む「綦毋懐文」の記事については、「綦毋懐文」の概要を参照ください。
経歴と逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/12 07:57 UTC 版)
『易経』に明るく、卜筮を得意とし、天文・風角・占相・逆刺にも通じていた。高歓に召し出されてその館の客となった。富貴になることはないが、横死する運命にもないと自分の将来について予見していた。その発言はしばしば無礼で無遠慮なものであったが、高歓はかれの才能を惜しんで許していた。538年(元象元年)、河橋・邙山の戦いに先だって、許遵は「敵方は火陣であるのに、我がほうは木陣である。火は木に勝つので、我がほうは必ず敗れるであろう」と李業興に予言した。戦いの結果は許遵の予言のとおりになった。 許遵は高岳の下で開府田曹記室となった。550年(天保元年)、北斉が建国され、高岳が清河王に封じられると、このことを許遵に伝えた。許遵は「蜜蜂もまた王とならん」と酷評した。554年(天保5年)、西魏が江陵を攻撃し、梁の元帝が北斉に救援を求めると、高岳が江陵の救援に赴くこととなった。許遵は後の凶事を招くとして、辞退するよう勧めたが、高岳は拒否できる情勢にないとして、許遵の同行を求めた。許遵は「生人に随行するのはよいが、死人と道を同じくするのは願い下げだ」と言って拒否した。翌年に高岳は鄴に戻ると、まもなく讒言を受けて毒殺された。 559年(天保10年)、北斉の文宣帝の無道ぶりは日増しに酷くなっていた。許遵は文宣帝のことを「狂夫」と呼んでその死を占い、「冬初を出ることはないが、わたしがそれを見ることはないだろう」と予言した。文宣帝はこの年の10月に死去したが、許遵はそれに先立つ9月に死去した。 子に許暉があった。
※この「経歴と逸話」の解説は、「許遵」の解説の一部です。
「経歴と逸話」を含む「許遵」の記事については、「許遵」の概要を参照ください。
経歴と逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/13 07:52 UTC 版)
若くして『易経』に明るく、卜筮を得意として高歓の館客となった。547年(武定5年)、高歓が晋陽で死去すると、高澄は高洋に命じて鄴の西北の漳水の北原に陵墓とする土地を選定させることとした。高洋は呉遵世とともにこの仕事に当たったが、占卜の結果は不吉な卦ばかりであった。また一箇所で呉遵世が占うと、「革」の卦に当たった。呉遵世ら数十人はみな用いるべきでないと言った。輔和は少年であったが、最後に進み出て、「革の卦は天下の人がみな凶とするところですが、ただ王家がこれを用いるのは大吉であります。『革彖辭』に『殷の成湯や周の武王が命を革めて、天に応じて人に順う』といいます」と述べた。高洋は車に登って振り返ると、「この地に定めよう」と言った。ここが高歓の墓の義平陵となった。 ある人の父親が刺史となったが、赴任先で病を得たとの手紙を受け取った。この人が館にやってきて旧知の卜者に吉凶を占わせると、「泰」の卦を得た。卜者が「この卦はたいへんめでたいものであり、病は快癒であろう」と言ったので、客は喜んだ。客が出ていった後、輔和は「泰の卦は乾の下で坤の上であり、土に入る兆しであって、どうして吉兆と言うことができよう」と卜者に言った。輔和の予言どおりこの客の父の凶報が届いた。 またある人の父親が病にかかり、輔和に占卜を頼むと、乾の晋の卦が出たため、輔和はこの人を慰め諭して帰らせた。後に輔和は「乾の遊魂。乾は天となり、父となる。父は変じて魂となる。天に昇って、死なないことができるだろうか」と言った。やはりその予言どおりになった。 大寧から武平年間にかけて、北斉の後宮で婦人が懐妊すると、輔和は子の性別や誕生の日時を占い、多くを的中させた。通直散騎常侍の位を受けた。北周に入って、輔和は儀同となった。隋の開皇年間に死去した。
※この「経歴と逸話」の解説は、「趙輔和」の解説の一部です。
「経歴と逸話」を含む「趙輔和」の記事については、「趙輔和」の概要を参照ください。
経歴と逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 09:12 UTC 版)
『周易』に明るく、陰陽や緯候を学び、また暦数にも詳しかった。東魏の末年に、北平郡太守に任じられた。550年(武定8年)、景業は高徳正を通じて「『易稽覧図』によると『鼎、五月、聖人君、天与延年歯、東北水中、庶人王、高得之』といいます。考えますに、『東北水』とは渤海をいい、『高得之』とは高氏が天下を得るということは明らかです」と、斉王高洋に言上した。高徳正と徐之才は禅譲を受けるために鄴都に赴くよう高洋に勧めた。高洋が晋陽から鄴に向かう途中、平城の旧都に立ち寄ると、禅譲反対派の大臣たちが晋陽に帰るよう高洋を説得した。賀抜仁らはさらに「景業が王を誤らせたもので、これを斬って天下に謝罪すべきです」とまで主張した。高洋は「景業は帝王の師とすべき者であって、どうして殺すことがあろうか」と言って、これについては聞き入れなかった。高洋がひとたび晋陽に帰り、景業に卜筮を命じると、乾の鼎の卦が出た。景業は「乾は君や天の卦で、『周易』に『時に六龍に乗り以て天を御す』とあります。鼎は五月の卦で、仲夏吉辰に天を御し禅を受けるとよろしいということです」と言った。ある人が「『陰陽書』に『五月は官に入るべからず。これを犯すはその位に卒す』とあります」と言うと、景業は「これは大吉であります。王が天子となれば、また下ることはなく、帝位のまま終わることができるからです」と答えた。高洋はこれにたいへん喜んだ。 北斉が建国されると、景業は散騎常侍に任じられ、長城県子に封じられた。文宣帝(高洋)の命を受けて『天保暦』を編纂し、李広がその序をつけた。
※この「経歴と逸話」の解説は、「宋景業」の解説の一部です。
「経歴と逸話」を含む「宋景業」の記事については、「宋景業」の概要を参照ください。
- 経歴と逸話のページへのリンク