糸崎の仏舞とは? わかりやすく解説

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糸崎の仏舞

名称: 糸崎の仏舞
ふりがな いとざきのほとけのまい
種別1: 民俗芸能
保護団体名: 仏舞保存会
指定年月日 2004.02.06(平成16.02.06)
都道府県(列記): 福井県
市区町村(列記): 福井市糸崎町
代表都道府県 福井県
備考
解説文:  糸崎の仏舞は、仏の面を着け一〇人の舞手が、白い童子の面を着け二人幼児見守られ太鼓と鉦に合わせて舞うもので、今は行われなくなった舞楽の一演目うかがわせるのである
 糸崎町【いとさきちょう】は、日本海面した越前加賀海岸国定公園一部である。海岸線から小高くなった丘の上育王山龍華院糸崎寺【いくおうさんりゅうげいんいとさきでら】観音堂がある。この観音堂の前の舞台で隔年四月十八日に、糸崎の仏舞が舞われている。
 観音堂正面から一五メートルほど離れて、約五メートル四方で、高さ約七〇センチメートル石組仏舞舞台がある。舞台周囲は石の欄干回っている。本堂舞台は、幅九〇センチメートルほどの通路結ばれている。舞台の奥側には奥行き二・七メートル舞台別に付き雅楽楽人僧侶の席になる。また本堂から向かって舞台右側には、舞台から一メートルほど離れて、高さ約二・六メートル広さは二メートル四方ほどの石組があり、の上にも石の欄干回っていて、太鼓と鉦の席になる。当日は、午前中に周囲紫の垂れ幕下げ通路舞台周辺には竹の先に赤布付けた旗が配置される
 公開当日になると、本堂須弥壇後方部屋が、面を着けたり装束を着るための場所になる。成人八人舞人は、黒頭巾で頭を包み金色の仏の面を着け、黒の法衣【ほうえ】をまとい袈裟をかけ、白い手袋を着ける。頭に飾り付いた天冠てんかん】をかぶり手に何も持たない四人を手仏【てほとけ】と呼ぶ。他の四人は頭に輪光りんこう】の宝冠かぶっていて、そのうち左手小さ太鼓持ち右手にばちを握る二人を打鼓仏【だごぼとけ】、両手に、それぞればちを握る二人を撥仏【はしぼとけ】と呼ぶ。その他に二人少年が、青色法衣と袴【はかま】に金色の仏の面を着け、頭に烏帽子をかぶり念【ねん】菩薩呼ばれる。うち一人金属製蓮の花二本持ち、他の一人は笏を持っている。以上の一〇人の舞人加えて、さらに角守【かどまも】りと呼ばれる二人幼児が出る。彼らは白の法衣と袴に、白色童子面を着け頭に天冠をのせている。仏舞伴奏者である太鼓と鉦の二人は裃姿である。また八人楽人は、頭に烏帽子をのせ、紫の袴に金色の上衣【うわぎ】を着けている。楽器龍笛りゅうてき】と篳篥ひちりき】が三人ずつ、笙【しょう】と楽太鼓がくだいこ】が一人ずつである。
 半鐘はんしょう】の合図仏舞が始まる。堂の裏側の部屋から雅楽越天楽えてんらく】の演奏にのせて、楽人などに続いて大人手を引かれ二人幼児の角守り二人少年の念菩薩八人成人舞人が、堂の正面から通路通って舞台に向かう。楽人たちは舞台後方張り出した場所に座り、角守りと念菩薩は、舞台四隅それぞれ立ち、八人舞人は、舞台中央四人ずつ二列に並ぶ。雅楽が終わると、太鼓と鉦が打ち鳴らされ仏舞が始まる。
 仏舞一番太鼓の舞、二番太鼓の舞、念菩薩の舞、三番太鼓の舞と続く。一番太鼓の舞と二番太鼓の舞は、太鼓と鉦に合わせて八人舞人舞台中央で輪になってゆるやかに回りながら舞う。二番太鼓の舞が終わると雅楽演奏があって、八人舞人舞台両側四人ずつ並ぶ。太鼓と鉦にのせて二人の念菩薩中央進み観音堂拝礼し、一人が手に持っていた笏をに置き、他の一人持っていた蓮の花受け取り二人とも本堂向かって拝礼して蓮の花置いて、また隅に控える。三番太鼓の舞は、八人舞人中央で輪になって舞い、順に一人ずつが舞をやめて隅に控えていき、最後一人になって舞う。この後入場同様に雅楽演奏にのせて列を作って舞台から観音堂戻って仏舞が終わる。
 糸崎寺は、十一面観音本尊として八世紀初頭建立され、さらに天平勝宝八年七五六)に中国僧侶千手観音持参して、この地に安置したときに、大勢菩薩現れ喜びの舞を舞ったことが、仏舞始まり伝えている。また糸崎寺は、一〇世紀成立した延喜式えんぎしき】に記載されている糸崎神社別当寺べっとうじ】ともいわれ、一六世紀記録糸崎寺の参詣記録があるが、その後一向一揆によって衰えた考えられている。なお一九世紀初め記録に、この仏舞絵入り紹介されていて、遅くとも、そのころから仏舞が行われてきたことが確かめられる。その図では、合計一二人の舞人等や太鼓と鉦の様子は今と同様であるが、舞台材木組んで作っているように描かれている。現在の舞台については、通路昭和四十八年に、舞台平成元年に、平成十三年に、それぞれ今の形に整えたもので、それ以前舞台は、土の舞台木製欄干置いて材木組んでいたという。

糸崎の仏舞

名称: 糸崎の仏舞
ふりがな いとざきのほとけまい
種別1: 民俗芸能
保護団体名: 糸崎の仏舞保存会
選択年月日 1973.11.05(昭和48.11.05)
都道府県(列記): 福井県
市区町村(列記): 福井市糸崎町
代表都道府県 福井県
備考 所在地同一都道府県内のもの(このデータ種別1から移行しています)
解説文:  糸崎の仏舞は、仏の面を着け一〇人の舞手が、白い童子の面を着け二人幼児見守られ太鼓と鉦に合わせて舞うもので、今は行われなくなった舞楽の一演目うかがわせるのである
 糸崎町【いとさきちょう】は、日本海面した越前加賀海岸国定公園一部である。海岸線から小高くなった丘の上育王山龍華院糸崎寺【いくおうさんりゅうげいんいとさきでら】観音堂がある。この観音堂の前の舞台で隔年四月十八日に、糸崎の仏舞が舞われている。
 観音堂正面から一五メートルほど離れて、約五メートル四方で、高さ約七〇センチメートル石組仏舞舞台がある。舞台周囲は石の欄干回っている。本堂舞台は、幅九〇センチメートルほどの通路結ばれている。舞台の奥側には奥行き二・七メートル舞台別に付き雅楽楽人僧侶の席になる。また本堂から向かって舞台右側には、舞台から一メートルほど離れて、高さ約二・六メートル広さは二メートル四方ほどの石組があり、の上にも石の欄干回っていて、太鼓と鉦の席になる。当日は、午前中に周囲紫の垂れ幕下げ通路舞台周辺には竹の先に赤布付けた旗が配置される
 公開当日になると、本堂須弥壇後方部屋が、面を着けたり装束を着るための場所になる。成人八人舞人は、黒頭巾で頭を包み金色の仏の面を着け、黒の法衣【ほうえ】をまとい袈裟をかけ、白い手袋を着ける。頭に飾り付いた天冠てんかん】をかぶり手に何も持たない四人を手仏【てほとけ】と呼ぶ。他の四人は頭に輪光りんこう】の宝冠かぶっていて、そのうち左手小さ太鼓持ち右手にばちを握る二人を打鼓仏【だごぼとけ】、両手に、それぞればちを握る二人を撥仏【はしぼとけ】と呼ぶ。その他に二人少年が、青色法衣と袴【はかま】に金色の仏の面を着け、頭に烏帽子をかぶり念【ねん】菩薩呼ばれる。うち一人金属製蓮の花二本持ち、他の一人は笏を持っている。以上の一〇人の舞人加えて、さらに角守【かどまも】りと呼ばれる二人幼児が出る。彼らは白の法衣と袴に、白色童子面を着け頭に天冠をのせている。仏舞伴奏者である太鼓と鉦の二人は裃姿である。また八人楽人は、頭に烏帽子をのせ、紫の袴に金色の上衣【うわぎ】を着けている。楽器龍笛りゅうてき】と篳篥ひちりき】が三人ずつ、笙【しょう】と楽太鼓がくだいこ】が一人ずつである。
 半鐘はんしょう】の合図仏舞が始まる。堂の裏側の部屋から雅楽越天楽えてんらく】の演奏にのせて、楽人などに続いて大人手を引かれ二人幼児の角守り二人少年の念菩薩八人成人舞人が、堂の正面から通路通って舞台に向かう。楽人たちは舞台後方張り出した場所に座り、角守りと念菩薩は、舞台四隅それぞれ立ち、八人舞人は、舞台中央四人ずつ二列に並ぶ。雅楽が終わると、太鼓と鉦が打ち鳴らされ仏舞が始まる。
 仏舞一番太鼓の舞、二番太鼓の舞、念菩薩の舞、三番太鼓の舞と続く。一番太鼓の舞と二番太鼓の舞は、太鼓と鉦に合わせて八人舞人舞台中央で輪になってゆるやかに回りながら舞う。二番太鼓の舞が終わると雅楽演奏があって、八人舞人舞台両側四人ずつ並ぶ。太鼓と鉦にのせて二人の念菩薩中央進み観音堂拝礼し、一人が手に持っていた笏をに置き、他の一人持っていた蓮の花受け取り二人とも本堂向かって拝礼して蓮の花置いて、また隅に控える。三番太鼓の舞は、八人舞人中央で輪になって舞い、順に一人ずつが舞をやめて隅に控えていき、最後一人になって舞う。この後入場同様に雅楽演奏にのせて列を作って舞台から観音堂戻って仏舞が終わる。
 糸崎寺は、十一面観音本尊として八世紀初頭建立され、さらに天平勝宝八年七五六)に中国僧侶千手観音持参して、この地に安置したときに、大勢菩薩現れ喜びの舞を舞ったことが、仏舞始まり伝えている。また糸崎寺は、一〇世紀成立した延喜式えんぎしき】に記載されている糸崎神社別当寺べっとうじ】ともいわれ、一六世紀記録糸崎寺の参詣記録があるが、その後一向一揆によって衰えた考えられている。なお一九世紀初め記録に、この仏舞絵入り紹介されていて、遅くとも、そのころから仏舞が行われてきたことが確かめられる。その図では、合計一二人の舞人等や太鼓と鉦の様子は今と同様であるが、舞台材木組んで作っているように描かれている。現在の舞台については、通路昭和四十八年に、舞台平成元年に、平成十三年に、それぞれ今の形に整えたもので、それ以前舞台は、土の舞台木製欄干置いて材木組んでいたという。
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糸崎の仏舞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/26 13:32 UTC 版)

糸崎の仏舞の舞人

糸崎の仏舞(いとざきのほとけのまい[1]、いとざきのほとけまい[2])は、福井県福井市糸崎町(近世における越前国坂井郡糸崎浦、幕藩体制下の越前福井藩知行糸崎浦)の育王山龍華院糸崎寺(いくおうざん/いくおうさん りゅうげいん いとさきじ/いとさきでら)[* 1]民俗芸能[1]として伝承されている仏舞舞楽の一種)である。糸崎寺観音堂の正面に設けられた石舞台[* 2]で披露される[1]

奇数年の4月18日太陽暦下)[* 3]奉納される[1]ほか、32年目の大開帳と17年目の中開帳の時にそれぞれ10日間にわたって奉納される[2]。2004年(平成16年)2月6日、国の重要無形民俗文化財に指定された(保護団体名:仏舞保存会)[1]

概要

仏の面を付けた10人の舞人と、白い童子の面を着けた2人の幼児が舞台に進み、幼児は舞台の端で合唱して舞を見守る。舞人は太鼓と鉦の伴奏にのせて舞台の中をめぐるように舞う。仏の面を付けた2人の舞人が舞台中央の机に蓮の花を置く場面などもある。

伝承によると、糸崎浦(越前国坂井郡糸崎浦)を通りかかりその景観が明州育王山に酷似していることに喜んだ唐の高僧禅海上人が、糸崎に草坊を結んで仏法興隆に励んでいると、緑毛に包まれた大亀に乗って千手観音が現れ、糸崎寺の本尊として観音堂に祀ったとされる。その開眼供養の大法要の際、諸々の菩薩が紫雲に乗って現れ、舞を舞ったことが仏舞の始まりとされている。なお、江戸時代の記録にこの仏舞が絵図入りで紹介されている。

中国唐代の文化を国家的な規模で取り入れた奈良時代の舞楽を今に伝えるもので、現在では舞の伝承が途絶えてしまった舞楽の「菩薩」をうかがわせるとされている。中国から渡来した舞楽は、古くは都の大寺院で舞われ、やがて日本各地に伝播していったものと考えられているが、純然たる仏舞のみを独立させて舞う例は少なく、貴重な文化遺産である。

脚注

注釈

  1. ^ 「育王山」の読みについて、福井県の公式ウェブサイトでは「いくおうざん」、文化庁の「国指定文化財等データベース」では「いくおうさん」となっている。「糸崎寺」の読みについては、福井県の公式ウェブサイトでは「いとさきじ」、文化庁のデータベースでは「いとさきでら」となっている。
  2. ^ 石舞台(いしぶたい)とは、舞楽舞台の一種で、野外に設けられた石造の舞台。
  3. ^ 太陰暦旧暦)下では、計算上、3月中旬。

出典

  1. ^ a b c d e 糸崎の仏舞 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  2. ^ a b 糸崎の仏舞”. 福井の文化財. 福井県. 2018年3月3日閲覧。

関連項目

外部リンク

座標: 北緯36度7分19.7秒 東経136度3分25.8秒 / 北緯36.122139度 東経136.057167度 / 36.122139; 136.057167



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