節談説教の流行とは? わかりやすく解説

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節談説教の流行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/31 20:56 UTC 版)

節談説教」の記事における「節談説教の流行」の解説

節談説教は、江戸時代において民衆娯楽となったいっぽう浪曲講談・落語など近世成立諸芸能の母体となったが、これももともと唱導音韻抑揚の節をもっていたことに由来する考えられる近世に入ると、本願寺教団東西分立したが、いっぽうで節談説教全国的な展開をみせるようになったともすれば近世は「日本仏教骨抜きにされた時代」と一面的評されることが多いが、幕府宗教政策ともなって真宗では寺院激増し各寺院での法要法座活性化して唱導説教需要一気増加したその結果教義正確性統一性必然となり、東西本願寺には江戸前期学林設立されることなり経典祖師伝記研究自宗派の仏教教団全体での位置づけ研究などが、盛んになり、それらをとしてより大衆獲得する唱導説教が、芸能という形態では大きな展開を遂げた時期にもあたっていた。 井原西鶴浮世草子世間胸算用』に暦の関係で大晦日節分重なった仏教寺院一日描いた平太郎殿」という一篇がある。前掲御伝鈔』の一部潤色した平太郎(親鸞高弟二十四輩のうち第二真仏)の物語は、節分当夜真宗寺院(真宗高田派をのぞく)で必ずおこなわれた。『御伝鈔』と同材の物語は、人形浄瑠璃演目となり、『親鸞記』などの題名でしばしば上演されまた、その正本さえ刊行されたが、その都度本願寺側から働きかけで、町奉行から禁止申し渡しなされている。 江戸時代において、教義研究説教生かした有名な説教師に、享保年間1716年-1735年)から宝暦年間1751年-1763年)にかけて活躍した浄土真宗本願寺派菅原智洞師、寛政年間1789年-1801年)のころまで活躍した真宗大谷派粟津義圭師がおり、後の説教内容技術はこの両人影響によるところが大きい。 節談説教技術は、優れた師に随行して修行をするか、合宿修行するかなどして、口伝により継承習得された。その節回し地域性濃厚で、各地方ごとに能登節、加賀節越中節、越後節安芸節、筑前節、尾張節などが形づくられた。また、合宿による主な流派としては播磨国東保福専寺兵庫県揖保郡太子町)の獲麟寮を拠点とする東保流(とうぼりゅう)がある。 説教昭和中期までその役割持続し全国各地説教所を巡業し芸人をしのぐ人気の「説教師」もおり、現代の「おっかけ」に相当する熱心な信者もいたという。上述のように、その芸能性から浪曲落語など話芸属す諸芸能の母体となった。特に浪曲浪花節)については、類似の発声法白声胴声ちょんがれ声)を用いることから、節談説教からの強い影響がしばしば指摘される明治・大正期大説教者に、本願寺派大野義渓師、木村徹量師、大谷派宮部円成師(1854年-1934年)、服部三智麿師(1870年-1944年)がいる。また昭和期名人上手に範浄文雄師、亀田千巌師、祖父江省念師などがおり、音源残されている(そのほとんどは小沢昭一による)。 省念師によれば円成師・三智麿師はじめ、戦前東海地方3県(愛知県・岐阜県三重県)および滋賀県には名だたる説教者ひしめきあたかも群雄割拠状況呈して互いにしのぎをけずり、当時はどの寺も聴聞の群参であふれかえっていたという。

※この「節談説教の流行」の解説は、「節談説教」の解説の一部です。
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