節談説教の流行
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節談説教は、江戸時代において民衆の娯楽となったいっぽう、浪曲・講談・落語など近世成立の諸芸能の母体となったが、これももともと唱導が音韻抑揚の節をもっていたことに由来すると考えられる。近世に入ると、本願寺教団は東西に分立したが、いっぽうで節談説教は全国的な展開をみせるようになった。ともすれば、近世は「日本仏教が骨抜きにされた時代」と一面的に評されることが多いが、幕府の宗教政策にともなって、真宗では寺院が激増し各寺院での法要法座が活性化して、唱導説教の需要も一気に増加した。その結果、教義の正確性と統一性が必然となり、東西本願寺には江戸前期に学林が設立されることなり、経典や祖師の伝記研究、自宗派の仏教教団全体での位置づけ研究などが、盛んになり、それらを核としてより大衆を獲得する唱導説教が、芸能という形態では大きな展開を遂げた時期にもあたっていた。 井原西鶴の浮世草子『世間胸算用』に暦の関係で大晦日と節分が重なった仏教寺院の一日を描いた「平太郎殿」という一篇がある。前掲『御伝鈔』の一部を潤色した平太郎(親鸞の高弟二十四輩のうち第二番真仏)の物語は、節分当夜の真宗寺院(真宗高田派をのぞく)で必ずおこなわれた。『御伝鈔』と同材の物語は、人形浄瑠璃の演目となり、『親鸞記』などの題名でしばしば上演され、また、その正本さえ刊行されたが、その都度本願寺側からの働きかけで、町奉行から禁止の申し渡しがなされている。 江戸時代において、教義研究を説教に生かした有名な説教師に、享保年間(1716年-1735年)から宝暦年間(1751年-1763年)にかけて活躍した浄土真宗本願寺派の菅原智洞師、寛政年間(1789年-1801年)のころまで活躍した真宗大谷派の粟津義圭師がおり、後の説教内容や技術はこの両人の影響によるところが大きい。 節談説教の技術は、優れた師に随行して修行をするか、合宿修行するかなどして、口伝により継承・習得された。その節回しは地域性が濃厚で、各地方ごとに能登節、加賀節、越中節、越後節、安芸節、筑前節、尾張節などが形づくられた。また、合宿による主な流派としては播磨国東保の福専寺(兵庫県揖保郡太子町)の獲麟寮を拠点とする東保流(とうぼりゅう)がある。 説教は昭和中期までその役割を持続し、全国各地の説教所を巡業し、芸人をしのぐ人気の「説教師」もおり、現代の「おっかけ」に相当する熱心な信者もいたという。上述のように、その芸能性から浪曲・落語など話芸に属する諸芸能の母体となった。特に浪曲(浪花節)については、類似の発声法(白声=胴声=ちょんがれ声)を用いることから、節談説教からの強い影響がしばしば指摘される。 明治・大正期の大説教者に、本願寺派の大野義渓師、木村徹量師、大谷派の宮部円成師(1854年-1934年)、服部三智麿師(1870年-1944年)がいる。また昭和期の名人上手に範浄文雄師、亀田千巌師、祖父江省念師などがおり、音源も残されている(そのほとんどは小沢昭一による)。 省念師によれば、円成師・三智麿師はじめ、戦前の東海地方3県(愛知県・岐阜県・三重県)および滋賀県には名だたる説教者がひしめき、あたかも群雄割拠の状況を呈して、互いにしのぎをけずり、当時はどの寺も聴聞の群参であふれかえっていたという。
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