第二発電所
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第一発電所に続き、電気化学工業は大淀川水力電気名義で1927年(昭和2年)4月より大淀川第二発電所の建設に着手した。当時同社は昭和金融恐慌の影響で業績不振に陥っていたが、電力費の節約を目指して会長の藤原銀次郎が建設を積極的に推進したという。 1931年(昭和6年)9月15日、最大出力3万キロワットの大淀川水力電気大淀川第二発電所が竣工した。当時九州で最大の水力発電所であった。建設費は900万円と当時としては安価に抑制されたため、第二発電所の完成により大牟田工場の電力費は1キロワットあたり6 - 8厘から3 - 4厘へと半減し、増産が可能となったという。第二発電所の所在地は東諸県郡高岡村(現・宮崎市、地図)。主要機器として電業社原動機製造所製縦軸フランシス水車(出力16,000馬力×3)、芝浦製作所製交流発電機(容量11,111キロボルトアンペア×3)、富士電機製変圧器を備えた。 翌1932年(昭和7年)6月、発電所運営の統一のため大淀川第一発電所が電気化学工業から大淀川水力電気へ移管され、以後第一・第二発電所ともに大淀川水力電気に帰属した。発電所移管後の1932年下期の決算時点で大淀川水力電気の資本金は2000万円となっている。また社長は、1929年時点では藤原銀次郎(1927年より電気化学工業会長)、1934年時点では小林正直(1933年より電気化学工業社長)、1938年時点では大橋新太郎(1937年より電気化学工業会長)、と推移している。
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第二発電所
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第二発電所(稲佐発電所とも)は長崎市稲佐地区の旭町に建設された発電所である。1912年(大正元年)に竣工した。発電所の主要設備は以下の通り。 ボイラー : 2台 原動機 : 750馬力カーチス式蒸気タービン2台(英国ブリティッシュ・トムソン・ハウストン製) 発電機 : 625キロボルトアンペア三相交流発電機2台(英国ブリティッシュ・トムソン・ハウストン製、周波数60ヘルツ) 1915年(大正4年)8月になって九州電灯鉄道の長崎発電所(出力1,000キロワット)が同一構内に増設された。このため長崎電気瓦斯が九州電灯鉄道に合併された後は両社の発電所を合わせて「長崎発電所」と称している。1919年(大正8年)2月には3,000キロワットの増設工事が竣工し、設備容量5,000キロワットの発電所とされた。長崎発電所は東邦電力時代も存続したが、1945年(昭和20年)に廃止されており現存しない。
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第二発電所
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位置:北緯35度9分45.5秒 東経136度53分19.4秒 / 北緯35.162639度 東経136.888722度 / 35.162639; 136.888722 (第二発電所跡) 1896年(明治29年)5月に愛知電灯の合併によって継承した同社の火力発電所を、名古屋電灯では第二発電所と称した。所在地は名古屋市下広井町3丁目(現・中村区名駅南、中電名駅南ビルの位置)。 第二発電所の設備は、ボイラー2台、蒸気機関4台、エジソン式直流発電機30kW・25kW各2台、ホプキンソン型600-800灯用交流発電機1台であった。特筆すべきは交流発電機の存在で、直流発電機しか導入していなかった名古屋電灯では小規模ながら初めての交流発電機となった。この交流発電機を用いて名古屋電灯では熱田町方面への長距離送電を試行し、試験結果を受け直流送電の全廃を決定して水主町発電所の建設に取り掛かった。1901年(明治34年)7月、同発電所の運転開始とともに第二発電所は廃止された。
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