第三一二航空隊
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1945年(昭和20年)2月5日、横須賀に置かれた第三一二海軍航空隊(312空)司令となる。312空はロケット戦闘機「秋水」配備の特攻部隊として予定され秋水の実験部隊でもあった。柴田によれば小林淑人大佐の推薦であり自分の実績と真価が正当に評価された結果であるという。 秋水の速度が速すぎるため、機銃の照準が困難と分かり、柴田の了承のもとで、飛行長・山下政雄の提案で編隊中で爆弾自爆する特攻戦法を採用された。多数の士官らの会議において秋水の機首に3号爆弾2発搭載でまとまっていたが、数日後の会議で山下から「秋水の機首に600キロ爆弾を搭載して敵編隊の中でボタンを押して自爆する戦法をとる」と自爆特攻の決定が申し渡されている。しかし、柴田は特攻について、部下から考えを聞かれた際に否定した、部下から自分の下でなら特攻へ行けると聞いて士は知る人のために死すと思ったなどと話し、特攻を計画していたことについて戦後語ることはなかった。 当時の柴田は「お光教」という新興宗教に傾倒していた。柴田は312空で犬塚豊彦と意気投合し「お光教」を紹介され犬塚以上に熱心になる。柴田が横須賀の庁舎にいなければ省部(海軍省・軍令部)か「お光教」の本部がある蒲田にいるとされ、頻繁に蒲田詣でが行われた。入信の強要はしなかったが部下を連れて行き、龍名を付けてもらい、部隊内でも使われた。お告げで部下の転勤辞令を出すこともあった。部隊運営に大きく影響していたため、312空を「神様部隊」と揶揄する声もあった。 4月ごろ視察に来た海兵同期の高松宮宣仁親王に対し、「龍名授かるもの88名のところ今40数名、柴田は正龍、柴田の大祖先(前世)は楠木正成」などと話し、高松宮は「ちっとも知らぬ人の名前を告げる由」と日記に書いている。また柴田は神様のところへ行ったらお告げがあり、高松宮がシュショウになって近く時局収拾に当る忠臣が今集まりつつある、高松宮の大祖先は神武天皇と話した。 4月11日、空技廠会議で柴田は「神のお告げにより秋水の初飛行を4月22日横須賀地区で行う」と発言し担当技術者を茫然させる。その後も「お光教」のお告げとして、秋水試験飛行を厚木基地から追浜基地に変更とした際は、三菱の技師らから狭いので危険と指摘があったが、狭いのなら機体を軽くせよと命じ、神のお告げで1.5トンの機体を500キロにさせた。また、突然燃料を少量にし、エンジンの持続時間を2分でいいと決め、エンジン完成を待ち7分持続できるまで待つべきとする技師らの意見は黙殺された。 7月7日、犬塚豊彦をテストパイロットとして秋水の飛行実験が行われたが、燃料のトラブルで帰還し、飛行場の監視塔に右翼端を引っ掛けて墜落した。犬塚は即死ではなかったが、柴田に謝りながら死んでいった。柴田は部下に神託をもらいに行くように命じ、犬塚の遺体に向かって気功のように手をかざしていた。検討会議で三菱の技師が軍令部に追及されるが柴田は彼らに責任はないとかばった。一方で今回の事故を犬塚が海への不時着守らなかったためと結論し「豊岡技師の責任となったが次は燃料満載にして空戦してみないと分からない、今回は偶然の不幸と思ってくれ」と缶詰を技師らに渡した。戦後柴田は犬塚と相談し空襲等危険を避けるため厚木基地をやめ、エンジン不調のため短い滑走路としたと話しお光教のことを話すことはなかった。隊員らは司令の新興宗教による決定だったと証言している。 8月15日、終戦を受けて、訓示をした後、「これでよかったと思う」と言った。千木良は特攻を開始する前でという意味であろうという。
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