第一・第二共和国時代
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「チェコスロバキア国鉄」の記事における「第一・第二共和国時代」の解説
ČSDは、第一次世界大戦終結に伴うチェコスロバキア共和国の成立を受けて、鉄道省設立および新国家鉄道事業体の組織に関する通商鉄道大臣令(オーストリア=ハンガリー帝国1896年通商鉄道大臣令16号、チェコ語:Vyhláška ministrů obchodu a železnic o zřízení ministerstva železnic a o vydání nového organizačního statutu pro státní železniční správu)に基づきオーストリア=ハンガリー帝国鉄道省が所管していたチェコスロバキア国内のオーストリア帝国鉄道(帝室オーストリア国家鉄道、kkStB)およびハンガリー国家鉄道(MÁV)の両国鉄事業を承継し、チェコスロバキア共和国鉄道省(Ministerstvo železnic Československé republiky)所管の国営鉄道事業として1918年10月28日に発足した。 ČSDにはkkStB線およびMÁV線のほか、ボヘミア地方の地方鉄道線が編入されたが、スロバキアおよびモラビア・シレジア地方を結ぶカッシャウ-オーデルベルク鉄道帝室特認会社(コシツェ-ボフミーン鉄道。KOB/KsOB/KBD, ドイツ語:k.k. privilegierte Kaschau-Oderberger Bahn/ハンガリー語:cs. és kir. szab. Kassa-Oderbergi Vasút/チェコ語:Košicko-bohumínská dráha)と、ボヘミア地方のアウシク-テプリツェル鉄道帝室特認会社(ATE, ドイツ語:k.k. privilegierte Aussig-Teplitzer Eisenbahn)およびブシュチェフラト鉄道会社(BEB, ドイツ語:Buschtěhrader Eisenbahngesellschaft)の3大私設鉄道は当初編入されず、1920年以降、元の企業が路線を保有し運営管理をČSDが行う形で事実上編入された。 また全線で駅名のチェコ語・スロバキア語名称への変更が行われた。ブレーキ方式の統一も行われ、旧kkStB車両が採用していた旧式の真空ブレーキは、旧MÁV車両が採用していた新式の空気ブレーキに取り替えられた。 1930年現在のČSD路線は、チェコスロバキア国内の鉄道路線の81%を占め、営業キロは欧州の鉄道事業者としては5番目の規模となる1万3,600kmに及んでいた。しかしその87%は単線区間だった。従業員数は13万5,000人で当時の国内人口の1%に相当した。 オーストリア・ハンガリー帝国時代の路線網は、オーストリア・ウィーンとハンガリー・ブダペストの間の東西幹線を主軸に、各地方に向かって南北に支線が伸びる形で整備されていたことから、当時チェコスロバキア国内を東西に結ぶ路線は単線のコシツェ-ボフミーン鉄道線を経由するルートのみだった。このため東西横断の新しい幹線整備がČSDの最大の課題となった。ČSDは輸送力増強を目指した路線改良に着手し、最大の事業となったハウリーチュクーウ・ブロト経由プラハ-ブルノ鉄道線の近代化・複線化(一部別線新設を含む)は第二次世界大戦後に完成した。 この間ČSDは、東西ルートの輸送改善策として、営業最高速度130km/hのM290形電気・機械式ガソリン動車(1936年、タトラ社製)を開発し、プラハ-ブラチスラヴァ間に新設した自動高速列車(Motorový rychlík)「スロヴェンスカー・ストレラ」に投入したほか、地方線区でもディーゼル動車の導入を積極的に手がけて無煙化を進めた。また煙害が問題となっていたプラハ周辺の路線では蓄電池機関車を導入。のち1924年から1928年にかけて直流1500V電化を行った。 しかし1938年9月29日、ナチスドイツとのミュンヘン協定を受けて占領下のチェコ・ズデーテン地方の路線がČSDから切り離され、ドイツ国営鉄道(DRG)に編入された。さらに協定に基づき、同年11月14日にはČSDの機関車877両、気動車136両、付随車158両、急行用客車117両、一般用客車2160両、貨車2万3500両をDRGに引き渡した上、破壊損傷したすべての鉄道施設のDRGに対する損害賠償が義務づけられた。
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