空からの援護と輸送
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 00:21 UTC 版)
「カンボジア作戦」の記事における「空からの援護と輸送」の解説
詳細はフリーダム・ディール作戦(Operation Freedom Deal)を参照 侵攻のための航空作戦は遅れて開始された。予告的な合図の役目を果たしかねないとMACVが考えていたため、作戦区域上の偵察飛行は制限されていた。侵攻計画自体における空軍の役割は最小限にとどまっており、それは後の国境突破への序曲と考えられたメニュー作戦の秘密を守るためという側面もあった。 4月17日、エイブラムス大将はカンボジアの「垣根を越える」研究・観察グループの偵察行動を支援するために、戦略的航空攻撃を内密で行うパティオ作戦(Operation Patio)を承認するよう大統領に要請した。この許可が与えられ、米軍の航空機はカンボジア北東部に21km侵犯することができるようになった。 4月25日には、この境界が国境全体に沿って47kmまで延伸された。 パティオ作戦は156回の出撃が行われた後に完了となり 、最後となるメニュー作戦の任務は5月26日に行われた[要出典]。 侵攻中に、米軍と南ベトナム軍の地上部隊は9,878回の航空出撃(米軍6,012、ベトナム空軍2,966)による援護がされており、1日当たり平均は210回になる:141。例えば「釣針」地域での作戦中、アメリカ空軍は3,047回の出撃飛行そして南ベトナム空軍は332回出撃した:75。これらの戦略的航空攻撃は国境地域にいる653回のB-52爆撃機任務により補完された(うち71回はビン・タイ作戦、559回はトアン・タン作戦、23回はクー・ロン作戦の援護) :143。 5月30日には、カンボジアにおける米軍の継続的な航空阻止行動、いわゆるフリーダム・ディール作戦が開始された(作戦命名は6月6日)。これらの任務は南ベトナムの国境とメコン川の間の深度48kmに制限されていた:201。しかし2ヵ月以内に作戦区域の境界がメコン川を越えて拡大し、すぐに米国の戦略航空機が現地でカンボジア軍を直接援護するようになった:199。これらの任務は合衆国によって公式に否定され、彼らの存在を隠すために公式報告書にて虚偽の文言調整がなされた:148。国防総省の記録では、1970年7月から1971年2月までの間にカンボジアを飛行した8000回以上の戦闘出撃のうち、約40%が許可された境界の外側であったことが示されている。 カンボジアにおける米軍と南ベトナム軍にとっての真の闘いは、自分達の部隊を兵站補給し続けることであった。 繰り返しになるが、作戦前における機密の必要性および国境地域に部隊が移される性急さのため、綿密な計画および準備は不可能であった。 エイブラムスは幸運だったのであり、北ベトナム軍が退避する代わりに聖域のために戦っていたら、米軍と南ベトナム軍の部隊はすぐに自分達の使える物資を消費してしまっただろう、との説もある:136。兵站をめぐる状況は国境地域の貧弱な道路網のため悪くなっており、夜間に道路護送を待ち伏せされる可能性から日中のみの配達実施が求められた。例えば、米軍第3砲兵大隊は弾薬を1日最大150台の平床トラックに積んでいた。兵站物流の担当者は侵攻を支援するために毎日2,086トン(2300ショートトン)以上の物資を配給していた:135。したがって空中補給が前線部隊のための兵站補給の主な方法となった。工兵と飛行士は侵入区域じゅうを絶えず動き続けていた:96-101。 性急な作戦、配備および再配備のため、砲兵部隊の調整やその射撃調整は作戦中における厄介な難題となった:72-3。このことは、性急に前進していく部隊間に適切な通信システムがないことで生じる混乱によって、ますます問題になった。 作戦を共同で行う事により、すでに過剰に伸びている通信ネットワークはさらに複雑さを増してしまった:149-51。にもかかわらず、米軍の兵站物流担当者の革新的で即興的な能力のお陰で食料、水、弾薬、予備パーツ供給は何の不足もなく目的地に到着し、戦闘作戦を妨害することはなかった。通信システムが複雑になりながらも、短期間の米軍作戦中における兵站は十分に機能した[要出典]。
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