穹窖砲台(第3・第4砲台)
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「佐田岬砲台」の記事における「穹窖砲台(第3・第4砲台)」の解説
本土決戦を睨んで1945年(昭和20年)2月に着工され、終戦直前に完成した。佐田岬灯台直下の断崖絶壁に彫り込み式の掘込み砲台が海上から15mの高さに2つ設けられ、三八式十二糎榴弾砲が2門設置された。敵艦を夜間照射する設備も設置され、探照灯は設置されたレールで山のすそ野をぐるりと移動することが出来た。探照灯を収納・保管する浅い横穴も作られた。 佐田岬先の御籠島南側岸壁にも三八式十二糎榴弾砲2門の掘込み砲台が設置された。弾薬庫も洞穴に作られた。これら穹窖砲台の合計4門の榴弾砲は豊後水道を挟んだ対岸の大分県の鶴見崎砲台から移されたものであるが、砲身長が1.44mしかなく射程も5.68kmと短い明治時代の旧式砲であった。建設作業には周辺住民も勤労奉仕隊として導入された。また予科練(海軍飛行予科練習生)の12-13歳の学生も動員された。配属された兵士は新潟県出身の者が多かったという。当時の御籠島は陸続きではなかったので、比較的軽量な物資は岬から鋼線を張った索道で運搬した。榴弾砲を収める洞穴はノミによる人力とダイナマイトで掘削され、崩落防止のために松の大木で梁が組まれた。掘り出された土砂はトロッコで運び海に投棄された。洞穴は深く掘られた。戦争末期ということもあり作業員に支給された食料は十分なものではなかった。1945 (昭和20)年6月に灯台下の砲台で起きた爆発事故では3人の作業員が亡くなり、後に灯台の北側30mの場所にこの事故の「忠魂碑」が建てられた。また当時21歳の見習士官が作業中に転落死している。大島に掘られた洞穴の長さは20mを超える長さとなった。
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