祭りの起源
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浜降祭の起源については次の3つの説があり、3つ目の説が有力である。以下に紹介する。 天保9年(1838年)または天保11年(1840年)、寒川神社の神輿が、例年春に大磯で行われる国府祭(こうのまち)に渡御した帰りに相模川の渡し場で一ノ宮の寒川神社の氏子と四ノ宮の前鳥神社の氏子とが争いを起こし、御輿が川に落ちて行方不明となる。数日後、南湖の網元である鈴木孫七が漁の最中にご神体を発見し、寒川神社に届けたことを契機に、寒川神社の神輿が南湖の浜で「禊(みそぎ)」をするようになったという。争いは裁判となり、代官は四ノ宮の氏子16名に打首断罪の判決を下したが、処刑の日にその丁髷だけを斬り落として打首に代えたという。その「丁髷塚」が平塚市榎木町に作られている。 江戸後期に幕府の昌平黌地理局がまとめた『新編相模国風土記稿』によれば、佐塚大明神(後に鶴嶺八幡宮に合祀)では寒川神社のお礼参りよりかなり昔から「みそぎ」の神事のための御輿の浜辺への渡御が行われていたという。 鈴木孫七による御輿の発見は偶然ではなく、探索の結果であり、御輿の紛失事件以前から寒川神社の浜での禊(ミソギ)は行われていた。寒川神社は相模川河口で、鶴嶺八幡は南湖の浜で別々に禊(ミソギ)を行っていた。それが場を南湖に統一され、合同で行われるようになり、諸社も参加するようになった。(永田衡吉『神奈川県民俗芸能誌』神奈川県教育委員会、1966年3月) 「3」の場所変更は御輿を発見した鈴木孫吉の功績に関係していると推定されているが、地震による河口の変遷も視野に入れるべきであろう。(旧相模川橋脚参照)
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祭りの起源
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秩父地方は、令制国が整備される前の時代、知知夫国(知々夫国・秩父国)が置かれた地域である。崇神天皇の時代に、知知夫彦命(ちちぶひこ の みこと)が初代知々夫国造に任じられている。秩父神社は、知知夫彦命が祖神である八意思兼命(やごころおもいかね の みこと)を祀ったことに始まるとされている。また、知知夫彦命は養蚕と機織りを教示したと伝えられる。令制国として武蔵国が成立した後も、708年(和銅元年)に武蔵国秩父郡から和銅が献上されたことを記念して「和銅」改元や「和同開珎」の鋳造が行われるなど、古くから朝廷と結びつきがあり、交易が行われていた地域である。 秩父神社は中世になると、秩父氏(坂東八平氏の一つ)の祖先である平良文により妙見菩薩が合祀され、妙見宮秩父神社となったと伝えられる。江戸時代には秩父大宮妙見宮として、日本百観音の秩父三十四箇所(秩父札所観音霊場)とともに栄えた。現在でも神幸祭(御神幸行列や御旅所斎場祭ほか)の祭礼の中などに、古くからの秩父神社例大祭の形態が残っているとされる。例大祭の「付け祭り」として笠鉾・屋台が曳かれ始めるようになったのは、約300年前の寛文年間の頃と伝えられている。 かつて秩父夜祭は「霜月大祭」との呼び名があった。これは霜月である旧暦11月3日に行われていたことによる。明治初期の太陽暦採用により新暦の12月3日に移行した。また「お蚕祭り」とも呼ばれた。秩父地方は、桑の生育に適した土地であったため、田畑の他に現金収入となる養蚕・絹織が盛んであった。江戸時代には絹の生産量が増大し、「秩父絹」として江戸をはじめ広く知られるようになった。各地に取引のための絹市が開かれ、大宮郷(現在の秩父市中心部)では1・6の市日の六斎市が行われている。特に秩父神社の「霜月大祭」では「絹大市」も行われた。その市に遠方から来る人々を楽しませるためにはじめられたものが、笠鉾・屋台などの「付け祭り」だとされる。
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