祭りの由来と変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 09:04 UTC 版)
「藤崎八旛宮秋季例大祭」の記事における「祭りの由来と変遷」の解説
この祭りは、もともとは放生会(ほうじょうえ)に由来するものといわれている。現在でも、この旧習自体は各地の寺社で催されているが、藤崎宮のこの祭りでは、その遺風を見出すことはできない。実は1868年の神仏判然例により、「ほうじょい」は廃れてしまった。「随兵」は、加藤清正が文禄・慶長、大坂から無事帰還できたことを神前に感謝し、みずから随兵頭となって兵100名を引き連れて藤崎宮の神幸式に供奉(ぐぶ)したのが起こりと伝えられている。加藤家時代は一時、随兵が300人いたが、その後、細川藩政時代にも100名ではあるが継続され、随兵行列の三役(随兵頭・長柄頭・御幸奉行)は家中で選抜された高位の者が務めた。 「飾り馬」は本来、供奉神職の乗馬であり、神職と同数の12頭が奉納されていた。細川藩政期には家老格の家から馬を出していた。また、かつて藤崎宮が鎮座していた藤崎台(現在は県営野球場がある)からは御旅所までの距離が短く、神職は乗馬せずに馬を曳いて供奉した。そのため不用の鞍上に飾りを施したものが次第に大きくなり、今日のような紅白あるいは青白の太輪の飾りになったという。馬上の飾りは「陽陰(ひのかげ)」と呼ばれ男女の性器を模った作りになっており、安藤流と小堀流の様式があったが、現在見受けられる型は安藤流のみとなっている。 家臣団の奉仕によるものであった飾り馬は、明治維新後、町方の手に移り、その奉納馬の数は時流の影響を受けて増減をみせてきたが、ここ数年は60頭以上の飾り馬が奉納されている。終戦直後は一時GHQの指令で祭りは中止になったが1946年に神幸式、1950年は隋兵行列が復活した。
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