神宮寺の建立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 07:46 UTC 版)
宇佐神宮が朝鮮半島の土俗的な仏教の影響の下、6世紀末には既に神宮寺を建立したとされている が、一般的にはそれより後、日本人が、仏は日本の神とは違う性質を持つと理解するにつれ、仏のもとに神道の神を迷える衆生の一種と位置づけ、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求め解脱を欲していると認識されるようになったとされている。これを神身離脱という。715年(霊亀元年)には越前国気比大神の託宣により神宮寺が建立されるなど、奈良時代初頭から国家レベルの神社において神宮寺を建立する動きが出始め、満願禅師らにより鹿島神宮、賀茂神社、伊勢神宮などで境内外を問わず神宮寺が併設された。このような神のための神域内の造寺造仏を「法楽」という。奈良時代後半になると、伊勢桑名郡にある現地豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣するなど、神宮寺建立の動きは地方の神社にまで広がり、若狭国若狭彦大神や近江国奥津島大神など、他の諸国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依する意思を示すようになった。また、東寺・薬師寺に見られるように9世紀には神体が菩薩形をとる僧形八幡神も現れた。こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となり、神前で読経がなされるようになった。また、神の存在は元々不可視であり依り代によって知ることのできるものであったが、神像の造形によって神の存在を表現するようになった。神宮寺や神社に所属して神に奉仕し、神前で神のために仏事を行なった僧侶を総称して社僧と呼んだ。社僧の権威は大きく、時に神職の立場を凌ぐものであった。社僧の階層には、別当や検校などがあった。 こうした神々の仏道帰依の託宣は、そのままそれらを祀る有力豪族たちの願望だったと考えられている>。律令制の導入により社会構造が変化し、豪族らが単なる共同体の首長から私的所有地を持つ領主的な性格を持つようになるに伴い、共同体による祭祀に支えられた従来の神祇信仰は行き詰まりを見せ、私的所有に伴う罪を自覚するようになった豪族個人の新たな精神的支柱が求められた。大乗仏教は、その構造上利他行を通じて罪の救済を得られる教えとなっており、この点が豪族たちに受け入れられたと思われる。それに応えるように雑密を身につけた遊行僧が現われ、神宮寺の建立を勧めたと思われる。まだ密教は体系化されていなかったが、その呪術的な修行や奇蹟を重視し世俗的な富の蓄積や繁栄を肯定する性格が神祇信仰とも折衷しやすく、豪族の配下の人々に受け入れられ易かったのだろうと考えられている。 「神々が仏に帰依したいと神託を下してきた」と各神社の神職が訴え出てきたのは、律令制の重税から逃れたかったためという指摘もあり、当時、民が勝手に僧侶になる=優婆塞の例が後を絶たなかったことが根拠とされる。つまり当時は神道側も搾取される側であり、例外は仏教僧であったことも起因している(後世の神奴も税は免除されている)。
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