硬貨と帝国のイデオロギー
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「ヤズデギルド1世」の記事における「硬貨と帝国のイデオロギー」の解説
ヤズデギルド1世は硬貨の中で、アルダシール2世の硬貨に用いられている円蓋状の冠に二つのメルロン(英語版)(胸壁の凸部)と三日月を上部に配した王冠を被った姿で描かれている。また、ヤズデギルド1世の治世の特徴として、もともと西方へ偏っていたサーサーン朝の政治的視点が東方へ移っていった点が挙げられる。この政治的視点の転換はペルシア東部における敵対的な部族の出現によって引き起こされたとみられ、ペルシアのフン族(英語版)に対する戦争が、カヤーン朝(英語版)の支配者とトゥーラーンの敵対者の間で起こった神話上の対立をペルシア人に再び想起させた可能性がある。ヤズデギルド1世の硬貨には伝統的な「エーラーンと非エーラーンの諸王の王」の称号に加えて「Ramshahr」(領土の平和を守る者)という称号が刻まれている。この称号は、中世ペルシアの叙事詩である「アヤードガール・イー・ザレーラーン(英語版)」に登場するカヤーン朝の君主のヴィシュタースパ(英語版)に対して用いられており、ゾロアスター教の習俗を記している10世紀に著された「デーンカルド」にも登場する。カヤーン朝のイデオロギーや歴史に対するサーサーン朝の関心は帝国の末期まで続いた。 ヤズデギルド1世の統治下でヤズドの町に造幣所が設置され(造幣所の略称は「YZ」)、この都市の重要性が増していたことを示している。また、グッラにも造幣所が設置され、ガフルムにも設置されていた可能性がある。
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硬貨と帝国のイデオロギー
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「ペーローズ1世」の記事における「硬貨と帝国のイデオロギー」の解説
ペーローズ1世の硬貨はサーサーン朝における伝統的なシャーハーン・シャー(諸王の王)の称号が省かれ、カイ・ペーローズ(ペーローズ王)の二つの表記のみが見られる。ペーローズ1世の印章のひとつに伝統的なシャーハーン・シャーの称号が依然として使われていたことから、これらの硬貨がサーサーン朝の君主の全ての公的な称号を表記しているとは限らないことを示している。ペーローズ1世の父親であるヤズデギルド2世が初めて採用したカヤーン朝(英語版)(ペルシアの神話上の王朝)のカイ(英語版)(王)の称号の使用は、元々は西方に向いていたサーサーン朝の政治的視点が東方へ移ったことが要因となっていた。ヤズデギルド1世とバハラーム5世の治世からすでに始まっていたこの変化は、ヤズデギルド2世とペーローズ1世の治世でその頂点に達した。このような変化のきっかけとなったのは東部辺境の諸部族の侵入にあったとみられ、これらのフン族と関連した諸部族との戦いは、初期の『アヴェスター』に見られるペルシアのカヤーン朝の支配者たちとトゥーラーンの敵対勢力の間に存在した神話上の対立を呼び起こした可能性がある。 このペルシアとその東方の敵との対立がペルシアの神話上の王たちによる東方のトゥーラーン人に対する戦いで用いられた「カイ」の称号を採用することにつながったとみられている。また、恐らくこの時代にサーサーン朝においてペルシアの英雄的な王であるフェリドゥーン(中期ペルシア語ではフレードーン)の伝説を含む叙事詩や伝説に関する書物が収集された。この伝説においてフェリドゥーンは帝国を三人の息子たちの間で分割し、長男のサルム(英語版)が西方の帝国であるローマ、次男のトゥール(英語版)が東方の帝国であるトゥーラーン、そして末子のイーラジ(英語版)が帝国の中心地であるペルシアを受け継いだ。このようなカヤーン朝の物語に影響を受けたサーサーン朝の人々は、実際に自らをフェリドゥーンとイーラジの後継者とみなし、西方の東ローマ帝国と東方のエフタルの領土もペルシアに帰属すると考えていた可能性がある。このような背景から、イラン学者のM・ラヒム・シャエガンは、サーサーン朝の人々はカイの称号を採用することによって象徴的にこれらの土地に対する権利を強く主張したのではないかと推測している。 ペーローズ1世の硬貨には硬貨によって三種類の異なる王冠が描かれている。第一の王冠は中央に胸壁の装飾と前面に三日月を配したコリュンボス(英語版)(球状の装飾)を持つ冠とダイアデムからなっている。第二の王冠は第一の王冠に似ているが、胸壁の装飾が冠の後ろまで伸びている点が異なる。第三の王冠には二つの鳥翼が加えられているが、これは勝利の神であるウルスラグナに因んでいる。ペーローズ1世はシャープール2世とともに定期的に金貨を鋳造していた二人のサーサーン朝の君主のうちの一人である。オーストリアの歴史家で貨幣学者のニコラウス・シンデルは、金貨は一般に日常生活において使用されることはなく、シャーハーン・シャーから高位のペルシアの有力者に与えられる下賜品の形で祭事の際に使用されていたようであると説明している。また、ペーローズ1世の銀貨は中国でも発見されており、2004年時点で中国において出土している2,000枚弱のサーサーン朝の銀貨のうち、ペーローズ1世のものは468枚あり、他のサーサーン朝の王の銀貨と比較して突出して多く見られる。東洋史学者の桑山正進は、エフタルで捕虜となった時に支払われた莫大な身代金の銀貨が交易路に流通して中国に流入したものであろうと述べている。
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